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鈴木忠志見たり・聴いたり

10月7日 幻想の自然

 秋の気配を感じる。白いススキの穂が川べりで優雅に風になびいている。今年は芸術公園の周辺に、珍しくいろいろな動物が現れた。私が見かけたのは、キツネ、カモシカ、アナグマだが、劇団員はイノシシ、サルなどにも出会ったようである。親子三匹のサルが河原で水浴びをしていた、初めてだと嬉しそうに話す。珍しくはないが、ウサギ、タヌキ、ハクビシンなどにも私は出会っている。
 ドイツ人俳優はクマに遭遇した。散歩をしていたら5メートルほど先に現れ、道を横断した。恐怖に直立不動、しかし勇気を奮い起こして写真を撮った。コレガ、ソウダ! と熊の写真を見せる。劇団員は歓声をあげて拍手していた。
 今年の利賀村の山には木の実が少ない。毛虫が木の葉を食べすぎたために、実がならない。ドングリの実などは殆ど見かけない。だから熊が出る、と村の人。確かに、熊が市街地にまで現れ、人間に危害を加えたというニュースが、今年は多いような気もする。人間がその住居を山里にまで展開して、動物の生息地を侵害したことも原因しているかもしれない。
 誰もあまり予測できない自然の変化、その変化がいろいろな形で人間の生命に影響を与える。大地震や暴風や豪雨、動物の出没まで、人間は自然と共棲しているのだから当然である。東北の地震による大津波、広島の豪雨による山崩れ、最近では御嶽山の噴火、多くの人命が失われている。統御できない自然と共に、我々の人生が人工的に営まれているのだということを改めて感じる。
 突然の別れ「自然憎い」、これはある新聞が、御嶽山の噴火で犠牲になった人の親族の発言、「あんなにいい人を奪った自然が憎い、悔しい」、を踏まえてつけた見出し語である。親族の個人的な感情はよく分かるとして、ジャーナリズムがその言葉をそのまま大きく見出しに使っていることには驚かされた。ここで憎まれているのは噴火や火山ではなく、偶然の暴力とされた自然なのである。私にも自然を暴力と見做す観点はあるが、そのことによって「憎む」対象であると考えたことはない。
 実際のところ、津波や豪雨や山崩れがある度に、自然を憎む感情が新聞紙上に躍ったら、少し困るのである。むろん私も、自然災害によって多くの人命が失われると、イタタマレナク、哀しい感情にとらえられる。人間は自然の変化の前では、カボソク、カナシイ存在にされると強く感じるから、その後でシミジミともなる。しかし、憎むというような攻撃的な感情が、自然の一面に対して起こったことはない。どちらかと言えば、自然の変化する力には興味がつきず、魅惑されたりすることが多い。
 「天は、なぜ、自分を、すり鉢のような谷間に生まれさせたのだ?」三河の稲橋村に生まれた、明治時代の農業指導者、古橋源六郎暉皃は、貧しい村に生まれた境遇を、こう嘆いていたと言います。しかし、ある時、峠の上から、周囲の山々や平野を見渡しながら、一つの確信に至りました。「天は、水郷には魚や塩、平野には穀物や野菜、山村にはたくさんの樹木を、それぞれ与えているのだ」そう確信した彼は、植林、養蚕、茶の栽培など、土地に合った産業を新たに興し、稲橋村を豊かな村へと発展させることに成功しました。
 コレハ、マタ、のどかで朗らかな自然との共棲の、オハナシ。安倍首相の国会での所信表明演説の「おわりに」の言い出しである。この演説の最後の締めはこうなっている。
 悲観して立ち止まるのではなく、可能性を信じて、前に進もうではありませんか。厳しい現実に立ちすくむのではなく、輝ける未来を目指して、皆さん、共に、立ち向かおうではありませんか。ご清聴ありがとうございました。
 この人は厳しい現実に、ホントウニ、直面しているのだろうか。ここに語られているような峠が、もはや実在するとは思えないが、ともかく峠の上に立った気分の殿様が、楽しそうに幻想の自然を眺めているような、そんな感じがする。自然災害の多発と地方と呼ばれる国土の惨状を想うと、元気づけられるより、殿様は大丈夫なのだろうかと、少し心配にさせられるところもあるのである。