BLOG

鈴木忠志見たり・聴いたり

11月24日 中国にて

 警察官が殺人現場の証拠写真を睨みながら、実際の現場で起こった犯罪の手順を推理したり、殺人者の動機や内面的な特徴を想像したりするように、私の舞台に接していただきたい。場面がそれぞれに独立しているから、論理的な切断があり、飛躍していると感じたところは、観客の皆さんがそれぞれに物語りを創って、穴埋めしていただいて良いのです。私の舞台は、なぜこんな人間がいたり事件が起こったのか、その答えではなく疑問を提出するものだからです。要するに、皆で考えましょう、という演劇なのです。
 中国での「リア王」公演の幕がおりた後の観客との対話で、私は観客の質問にこう答えた。北京でも上海でも、私の舞台が直線的に物語りが展開していかないことについて、同じような質問があった。私はシツコイのを承知で、更にこういう譬えも付け加えた。中国の観客が私のような形式の演劇に、馴染みが薄いと感じたからである。
 医者が患者の病状を知ろうと、CTスキャンやMRIなどで、身体内部を映像化する。その映像を見ながら、どこに欠陥があるかを推理したり、患者の生活史を想像したりする。そしてあたかも、患者の内部や過去を見たかのように、診断という物語りをつくる。私の舞台は、私が推理し想像したチョット特殊な人間の内面の映像化です。観客の皆さんはこの映像から、警官や医者になったつもりで、人間の物語りや診断書を創っていただければ良いのです。
 しかし、これだけでは誤解を招くといけないので、私はさらにシツコク説明した。もちろん私は、警官や医者が正しい物語りを創ったり診断をすると思っているわけではない。彼らの推理や想像、それによって創られる物語りや診断は、間違うことも多いし、腹黒い警官や医者は、自分の利益のための物語りを創ったり、偽りの診断書を捏造することもある。そういう点では、人間は誰しも不完全、病気を持っているのです。「リア王」の演出上の主題、「世界は病院である」という視点は、こういう人間に対する考え方から発想されたものなのです。
 ここまで言うと、多くの観客は分かったような顔をしてくれる。警官や医者も病気持ちだとは、よく言ってくれたと感心してくれる人もいる。こういう職業の人たちの人間としての欠陥や病状の悪さは、どこの国でもよく目立っているようである。
 そこでまた、新たな質問が出る。病気は治るのかと。もちろん私は、病気が治ることなどありえないと答える。病気を自覚して闘っている人と、他人にまで病気を感染させる人と、実際は病気なのに自分は健康だと、ノホホンと生涯をおくる人がいるだけだと。
 昨日で中国公演は終わり、いよいよ今日は帰国である。11月1日からの滞在だから、最近にはない長い公演旅行、少し疲れた。しかし、中国という国とそこに住んでいる人たちのことが、身近に分かったのは良かった。中国の経済力や政治の力の在り方、若者の将来への精神的不安感、自国の伝統や歴史への舞台関係者のアンビバレントな感情などである。
 現在の中国にも、未だ舞台伝統の遺産は多く残っている。見方によれば、世界有数の歴史的財産を保持しているかもしれない。しかしその財産も、放っておけば殆どがガラクタとして、廃棄処分になる可能性もあると思う。これは日本も同じだが、この中国固有の歴史的財産をどう加工し直せば、中国だけの財産ではなく、現代の世界の人々にも貢献できる文化的財産として蘇生させることができるかの道筋を、中国の演劇関係者はまだグローバリゼーション下に見いだしていないように見える。
 政治や経済の力を誇示するだけではなく、舞台芸術の領域で、自国の人々以外にも貢献できる力量を発揮できたら、中国は名実共に大国の風貌を身につけたとみなされるはずである。