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鈴木忠志見たり・聴いたり

11月30日 二つの困難

 どこの国へ行っても、演劇人はタイヘンそうである。コトに真面目な演劇人であればあるほど、自分の仕事の将来に不安を抱えて憂鬱そうである。この場合のマジメとは、理想とする演劇作品が実現できないのではないか、その手立てが見つけ出せないのではないか、と真剣に悩んでいるということである。頭の中にはイメージが、心には欲望は確かにある。ダガ、シカシ、なのである。
 演劇は陳腐な言い方だが、個人芸術ではなく、集団によって創りだされる総合芸術である。総合とは、作品を創り出す集団に演劇人と呼ばれる演出家や俳優だけではなく、文学者、美術家、音楽家、衣装デザイナー、などの他の芸術諸領域の専門家も関わっているということである。これらの人たちが、一定の目標に向かって共同作業をする。その成果が実際の舞台である。このそれぞれの領域の専門家の芸術水準がどれほどのものかによって、舞台作品の芸術性は左右される。
 こういう総合性を兼ね備えた集団を、成立させ持続させることは可能か。言い方を変えれば、集団を集団たらしめる共同性の質とルールは何か、それを現代社会に対応して、新しく創り出すことは可能かが問われているのである。この課題に応答する道筋が現実的に見えない、これが真面目な演劇人の悩みと言ってよい。
 グローバリゼーションと言われる現代社会の特徴は、従来のコミュニケーション・システムを一掃しつつあることである。人間の生身のエネルギーを使用したコミュニケーションの場を、社会の片隅に追いやりつつある。電子メールは、非動物性エネルギーを媒介させることによって、同じ場と同じ時間を共有しないでも、人間同士の意思伝達や情報交換を可能にした。人間が集団であることの便利さと豊かさの感覚を不要にした。というより、人間が集団であることの不自由さを感じさせるようになったかもしれない。そういう点では、演劇活動に対立するコミュニケーションの形態を現代社会は創出したのである。
 明治政府は日本社会を西洋化する政策の一環として、演劇改良、いわゆる歌舞伎の近代化を計ろうとした。そのために、舞台芸術全般を国家管理の下に置こうとして、おおよそ次のような内容の通達を出す。1872年(明治5年)のことである。
 一、 上流貴紳淑女が見てもよいように卑猥、残酷を差し控える。
 二、 俳優、芸人を教部省の監督下に置き、教導職に任ずる。
 三、 史実を歪曲せず、忠孝、武勇、貞節を主題とすべきこと。
 この通達が第二次大戦終了までの、日本の舞台芸術に対する思想的風紀的弾圧の根拠になり、日本の舞台芸術の世界水準への参入をいちじるしく阻害したが、現代では民族意識や国家愛の高揚のために、似たような発言をする政治家を世界中に見かけるようになった。これもグローバリゼーション・パラドックス、とでも言うべき現象で、現在を真面目な演劇人として生き抜こうとする人たちが、立ち向かわなければならない難関の一つになりつつある。ギリシャ悲劇やシェイクスピアの戯曲が取りあげる題材は、殆ど殺人なのである。
 集団を基礎にして成り立つ舞台芸術、それが歴史的に積み上げてきた財産は、新しいコミュニケーション・システムによって滅ぼされるか、国家的な管理システムに組み込まれて、政治家の意向に左右される一時の慰みに堕するか、どこの国でも多かれ少なかれ、その本質の変容を迫られている。
 演劇人は民族性や所属国家の違いを乗り越えて、より良い人間の存在のために、演劇は人類が創りだした貴重な文化的思考装置であることを、あらためて強く主張しなければならないと思う。