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鈴木忠志見たり・聴いたり

12月9日 激しい人たち

 大正モダンとか大正ロマン、大正デモクラシーなど、いずれも明治と昭和に挟まれた時代、わずか15年の間だが、大正時代の社会的事象や精神的な雰囲気を表した言葉である。これから吉祥寺で公演する「からたち日記由来」の主人公、芳川鎌子の起こした不倫騒動、心中未遂事件もこの時代のものである。自由恋愛などという言葉も生み出されたらしい。
 大正時代は西洋から受けた都会文化の影響が、様々な領域で吹き出した。女性の行動が、それまでの日本人の道徳観に逆らうように登場し、世間を騒がせたのもこの時代である。憲兵大尉甘糟正彦に殺害された無政府主義者大杉栄、その大杉を離婚させ妻になる伊藤野枝、二人とも激しく拷問され死体は井戸に投げ込まれた。また、この大杉との三角関係から彼を刺し、殺人未遂で服役した神近市子など、理想の情熱に身をまかせて激しく行動した女性たちがいる。婦人運動の先駆者と言われてもいる人たちだが、神近市子は第二次大戦後には、日本社会党の国会議員となり活躍した。
 私の仕事、演劇関係にもすさまじく情熱的な女性がいた。松井須磨子、一世を風靡した女優である。今でも時として耳にする「ゴンドラの唄」とか「カチューシャの唄」は、彼女が劇中で歌って流行らせたものである。彼女は大正2年に島村抱月と共に、芸術座を創立する。
 島村抱月はドイツ、イギリスに留学し帰国した新進気鋭の学者だった。女優松井須磨子と恋に落ち、5人の子供をもうけた妻と別れる。そして、大学教授の職を辞してまで、イプセンの「人形の家」やトルストイの「復活」など、松井須磨子主演の多くの舞台を演出したのである。築地小劇場を創立した小山内薫と並んで日本の現代劇、いわゆる新劇の草分けである。島村抱月と小山内薫、それに坪内逍遥を加えて、この3人が明治末から大正時代にガンバッテ活躍してくれたお蔭で、現在の私の仕事も存在しているとも言える。
 島村抱月が死ぬのは大正7年(1918年)である。松井須磨子はその翌年の1月、芸術座の道具部屋で首を縊って死ぬ。抱月が死んで2ヵ月後である。抱月が死んだ時、須磨子は抱月の顔に自分の頬を押し付けて、あれほど、死ぬときは一緒に死ぬって約束しておきながら、なぜ一人で死んでくれました、と叫んだという。マルデ、芝居の一場面、幕切れのクライマックスである。実兄あての遺書には走り書きで、私はやっぱり先生のところへ行く、墓だけは先生と一緒にしてくれ、といったことが書かれていたという。この死の衝撃度は、芳川鎌子事件の話題を一挙に忘れさせるほどだったらしい。
 今時、こんな演出家と女優の関係が成立するのかどうか、寡聞にして知らない。それにしても、島村抱月は幸せな演劇人生を送った、という人がいるが、ハタシテ、ソウカ。推測の域を出ないが、この関係は周囲の人たちにとっては、随分と迷惑だったのではあるまいか。しかし、他人に迷惑をかけながらも、一時とはいえ演劇界だけではなく、世間の主役を堂々と生き、話題にしたのだから、やはり二人は幸せな人生を、イキタナー、と素直に驚き感動しておいた方が良いのかも知れない。「からたち日記由来」の主人公とされた実在の芳川鎌子は、事件後に再び結婚するがすぐ、自殺に近い形で病死する。それとは対照的な人生である。
「殉教者とは、自分以外の何物かをあまり強く思う結果、自分一個の生命などを忘れ去ってしまう人のことである。これにたいして自殺者は、自分以外の何物にもあまり関心を持たぬ結果、もうこれ以上何も見たくないと思う人のことである。一方は何物かが始まることを望み、他方は何もかも終わることを望むのだ。言い換えれば、殉教者の高貴なるゆえんは、たとえどれほどの世を捨て、人間的なるものを憎もうと、究極において生とのきずなを認めるというまさにその点にある。彼の魂は自分の外部に向けられている。彼が死ぬのは何物かを生かすためにほかならぬ。これにたいして自殺者の高貴ならざるゆえんは、彼が存在とのきずなを持たぬからである。彼は単なる破壊者にすぎぬ」
 イギリスの批評家チェスタトンの「正統とは何か」の一節である。こういう知的な男の理屈を一瞬、コケにしてしまうほどの迫力は、須磨子の死には確かにある。
 松井須磨子は抱月との生活の場ではなく、劇場で死んでいる。本人のつもりでは、男への愛のために自殺したのではなく、演劇への二人の愛、演劇の殉教者のつもりだったのかもしれない。しかし、長年にわたって演出稼業をしてきた人間としては、この行為にはいささかの困惑を感じるのが正直なところである。劇場とはもう一つの生があることを確かめる所であり、実際に死ぬ所ではないと思うからである。