BLOG

鈴木忠志見たり・聴いたり

1月20日 自由のこと

 バリ島から帰るとフランスで大騒ぎ。行く前はアメリカ。テロ反対は分かるとして、<表現の自由>という言葉が、これほど脚光を浴びるとは思わなかった。大統領や首相までが登場し、この言葉を頻繁に口にして、全世界に檄を飛ばしている光景には少し違和感がある。過去においても現在でも、表現の自由を抑圧する地位にいる人たちである。
 いつの時代にもどんな社会にも、こういう自由がホガラカに存在したわけではない。殊に政治的な領域では、アメリカでもEUでも表現活動を弾圧した歴史があるし、現在でも抑圧的である。自由という言葉が政治的に利用されすぎていると感じる。何を言い、何をしても<ジユウ>だが、政治家としての結果責任ということも背負ってもらいたいと思う。
 愛し合う二人の人間の間にも、素晴らしい人間の権利のように、自由は自明なものとして存在しはしない。精神的な規律としての責任をともなう形で存在する。自由とは束縛的な規律から免れた状態を意味するのではなく、健全な人間の関係のあり方を表現した言葉である。一定の人間関係を変更したり、消滅させたり、在りのままに持続しようとする真摯な欲求の実現過程、その過程の精神的な葛藤のうちから生み出されてくるものである。
 言論や表現そのものに自由があると言うべきではない。それらの手段を駆使して人間関係をどうするか、その関係の状態を決定する自由な意志があり、その意志決定の自由は尊重され、守られなければならないのである。その意志の自由がどんな状況を引き起こすとしてもである。要するに、人間関係の中での責任の負い方はどうあるべきか、個人としての人間の自律性とは何か、という問いから立ち上がってきた言葉である。
 例えば、恋人を悪しざまに非難する言動があるとしたら、男であれ女であれ、相手がイヤガルことを承知で、その関係の現状を否定する意志の自由が発揮されたと見なすことができる。現状の関係を変化させたくなければ、あるいは、相手に自分に対する敵意や憎悪の感情を抱かせたくなければ、自分の主観性だけに依存した感情的言動を行うことはできない。相手の状態を考慮した言動になるのは当然である。相手にも関係を変更したり消滅させる意志の自由があるからである。
 もし、人間関係を健全に持続し発展させたければ、精神的な自己統御が必要である。相互の意志決定が共存できる、共同のルールの場を形成しつづける努力が必要である。そういう意味では、自由とは人間相互の精神的な努力、たえざる自己検証の場から生み出される、と言った方が適切かもしれない。
 どんな人間にも関係を決定する意志の自由があり、その意志は尊重されなければいけない。これは人間社会の大前提でなければならないが、この前提が一方的な主観的信念だけに依拠すると、人間関係に危険な状態が発生する。現代のイギリスを代表する文化理論家の一人、テリー・イーグルトンが2008年、アメリカのイェール大学で行った講演の一節を思いだす。
 イギリスの首相たちは共通文化の存在を信じており、誰もが彼らと同じ共通文化への信念をいだけば、ロンドンの地下鉄を爆破しようとする不埒な人間などいなくなるはずだと考えているが、文化的信条を相当数の新参者に伝える場合、その信条は途中で例外なく変更を余儀なくされるはずである、とイーグルトンは言う。そして次のように続ける。
 「大統領官邸やダウニング街あるいはエリゼ宮の住人たちは、みずからの信条が他人に伝わる過程で疑問に付されたり、変更を余儀なくされたりするといったことに思いいたらないのだ。彼らがよりどころとする共通文化とは、いっぽうでよそ者たちを、いかなる誤謬の可能性も想定されていないような、すでに確立された価値の枠組みのなかに組み込み、そのいっぽうで彼らの風変わりな習慣にかんしては、それが、このあらかじめしつらえられた調和的秩序を乱すことがなければ、自由にやらせておくといったものである。<中略>つまりあまりにも独占的であると同時にあまりにも放任的なのだ。言葉のより根源的意味における共通文化とは、誰もが同じことを信じている文化ではなく、誰もが対等な立場で協力しあいながら、共通の生活様式を決定する文化なのである」
 私は最後の一節の考え方に賛成するのである。しかし最近の欧米での、言論や表現の自由を守れとの声高な掛け声にもとづく抑圧的な対応や、それに対するアラブ諸国の攻撃的な反応に触れると、イーグルトンの希求する共通文化の新しい様相が、長年にわたって築かれてきた白色人種やイスラムの社会、むろんアジアの社会の内にもだが、それが実現するのかどうか、絶望的な気がしないでもない。もちろんすでに、芸術や科学、ある種の学問の領域では、意識的な人たちによってこういう努力は実践され、いくらかの成果をあげているように思ってはいる。
 しかしそれが、政治や経済や宗教の領域の争いにまで、建設的な影響を与えられるのかどうかと言われれば、ソウ、ネガウ、と小さな声で呟くしかないのかもしれない。