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鈴木忠志見たり・聴いたり

2月6日 批判的知性

 日本にも江戸時代まで晒し首の風習はあった。斬首刑にあった人間の首を、見せしめのために四条河原や獄門に晒した。その噂を耳にした関係者や好奇の心をもつ人たちが、その光景を見に集まる。どれほどの間、首を晒して置いたのかは詳らかではないが、この光景を目の当たりにできた人は、そう多くはないだろう。
 今や晒し首はネットに登場し、好奇心を持った人は、世界の何処でも何時でも、その光景に触れられる。間接感を伴う分だけ、その映像への接触は気楽に何度でもできる。
 晒された生首の場合はソウ、カンタンニハ、イカナイ。自然に晒された生首は時々刻々と変化する。最後は腐食してクズレ、地に還る。このすべてに立ち会った人は居るのかどうか。処刑された人へのヨホドノ愛情か好奇心を抱く人、その生首の変化の推移を観察することが、使命感になるような人間にしか果たせない行動である。
 その場合ソノヒトは、一日のうち何時間、生首との対面を果たすのか、チラット見るだけなのか、イヤ、イヤ、その面前で寝食をするのかどうか、その場の管理上の規制はどのようなものであるのか。
 例えば、生首が盗まれたりしないように、管理している人は居るのかどうか、何日間か晒したら、首は何処かに捨てられるのか、私の想像は自動回転し、ツカレル。これもイスラム国に関わる人たちから受けた衝撃である。彼らの行動は現代の先端技術を介して私に届く。しかし、届けられた行動とそれを支える精神は、近代以前のものなのである。
 前記の人たちだけに限らず、今の世界での出来事に触れると、近代以前のメンタリティーが随所に、蘇りつつあると感じることがある。敵対する人間、集団、国家は完全に消滅させるべきだ、という考え方や物の見方が前提になって、行動が発生していると思えるところがあるからである。これは古代のメンタリティーではないか。しかし、古代人だからといって現代人が<バカニスル>ことはできない。人類二千数百年来の財産とも言うべき、すばらしい知性も生み出している。
 エウリピデスの「トロイアの女」は、その一つの証拠と言ってもよい。エウリピデスは、一つの国を滅ぼし勝利した国の作家である。その彼が、敗者の国の女王を主人公にして戯曲を書き、勝利した自国の軍隊の行為を批判的に描いている。そのことによって、彼は戦争という行為の非人道性を告発したのである。勇気のいる仕事だったと思う。
 この戯曲によれば、トロイアの男たちはすべて殺され、生き残った女たちは奴隷としてギリシャへ連れていかれる。トロイアは戦争に負けて、ギリシャに占領されるのではない。トロイアは国としても民族としても消滅するのである。これがトロイア戦争の実相である。トロイアの女王ヘカベはギリシャへ連れていかれる直前に言う。<土地の名もやがては忘れ去られ、あれも、これも、亡びゆき、あわれトロイアの国も、今はなく……>
 戦争に負けて、一つの国家とそれを形成していた民族が、土地もろともに消滅する。これは現代ではなかなかお目にかかれない、近代以前の戦争の様相である。むろん現代でも、弱小の国家が戦勝国に併合され、独立した国家としては消滅するということはある。また、イスラエルのように新しい国家が誕生するということもある。しかし、一国家が成立していた土地が廃墟になり、そこに誰も人間がいなくなり、民族としても消滅するというのは、現代ではなかなか考えられないのである。それも他の国家が羨むほどに文明化され、繁栄していた場所がである。しかし、最近の中東を中心にして、世界的に湧き起こっている紛争を想うと、古代人の否定的なメンタリティーの方を、強く感じさせられるのである。
 古代都市トロイアは、ドイツ人シュリーマンが1870年代に発掘するまで、多くの人に身近な存在にはならなかった。しかし、私のように怠け者の演劇人が、古代の国家とそこで苦闘した知性が在ることを知り、古代人の苦悩に思いをいたし、かつ励まされるようになったのは、シュリーマンではなく、エウリピデスのお蔭であった。
 近代以前に戻りつつある現代に、古代人エウリピデスのような批判的知性が、数多く現代演劇の世界にも出現することが必要だと改めて思う。明日は横浜で「トロイアの女」を一回だけ公演するために利賀を離れる。日本の貧しい演劇状況に苦闘している、若い演劇人たちへの私なりの応援のつもりである。