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鈴木忠志見たり・聴いたり

2月14日 意志とホガラカ

 最近はホガラカな気分になることが少ない。テレビを見ても、新聞を読んでも、重くイライラさせられることが多い。年を経るとは、コンナモノカと諦めてはいるが、これを世の中のセイばかりにしても仕方がないと、極力ホガラカに、気分が軽くなる在り方を探している。むろん、劇団員と共にいる時にはホガラカでいられる。
 もう40年前、利賀村から越中八尾駅までを、劇団員30名と一緒に歩いた。距離は30キロを少し越えている。当時はまだ、道路がアスファルトになっておらず、切り開かれた山あいを、坂になった泥道がクネクネと続いていた。現在の道路は直線の部分が多くなり、その距離は10キロ近く短縮されていると思う。歩行時間は6時間であった。
 ソモソモ、何故こんなことをしたのか。廃屋になった合掌造りを借りて、演劇活動をしたいと利賀村に要望したら、教育長から言われたからである。都会育ちの若い衆が、いつまでこんな山奥でモチマスカネ。
 私はこの言葉の背後に、お前たちは身体的にヤワだし、精神的にもヘンダとする、先入観を感じ、それに具体的に反発して見せたのである。教育長には、私たちの要望は理解を越えていた。東京の演劇ジャーナリズムですら、私たちの行動を連合赤軍の軍事訓練や新興宗教集団の拠点づくりと同種の行動だと見なしていたのだから、人口1,500人にも満たない山奥の教育長、私たちをマズ、人間として信じないのは当然である。実際のところ、社会教育主事の車が八尾駅まで私たちの後をつけてきた。落伍者が出た場合の助けだとか教育長は言っていたが、実際は監視だったのだと私は思っている。
 3月の初旬だから、利賀村の山々には未だ、厚く雪が残っている。腹が減った時のためには握り飯を用意したからヨカッタのだが、コマッタのは女性のトイレ。チョット、イイデスカ! という要求がしばしば。コレハ、シカタガナイ、雪の山裾に分け入って用を足してもらう。狭い山あいの道で、女性たちが戻って来るのを大勢で待っている気分は、ジツニ、初めてのもの。戻ってきた女性に、アア、キモチヨカッタ、コンナケイケン、ハジメテ、とニコヤカナ顔で言われた時は、こんなにホガラカで良いのかと思わせられたものである。男優たちは笑っていた。
 集団で行動していると、女性のトイレからの帰還を待つ機会は多いが、この種の待機経験は二度とはないから、この時の気分は今でも鮮やかに思い出す。集団というものはドンナ形にしろ、ナニカシラ病み、ドコカ湿ったオリをイクバクかは引きずってしまうものだが、コレハ、ホガラカ、ヨカッタ。女性のトイレの使用時間は、男性よりも長いから、都会では待たされることのイライラやタイクツを感じることが多い。時間にセッカチになる。些細で習慣的な日常行動も、自然の中ではホガラカな行為に転化することを発見。劇団が利賀村へ移動したことの、アリガタイ収穫の一つであった。
 収穫といえばこんなこともあった。自動車事故で片足を骨折した男優がいた。脚には骨の代わりに鉄棒が埋め込まれている。退院して3ヵ月も経っていないから、私はその男優にタクシーを頼んで、遅れて出発しろ、と言ったのだが、本人は承知しない。ぜひ参加したいと言う。
 急な坂道を下りる時には、辛そうな顔もしていたが、劇団員に励まされつつ、ツイニ、八尾駅までを歩ききった。男優のナントモ嬉しそうな顔、参加させてくれたことへのお礼を言われた時には、私はテレタ。これも集団で行動することの、不思議な力がなせる業である。私の力ではない。実際のところ、いくら教育長に反発しても、私も一人だったら、30キロの山道を歩く意志を持続することは難しかったと思う。
 集団だから可能な励ましあい、そのことによって強度になる意志の力、どんな行為も集団を形作る人たちがホガラカに共有する気分、これらを維持できないと、劇団という集団はタダ、タダ、ユルンダ、人間関係の惰性態になるだけではなく、常軌を逸したサマザマな暗い病を引き起こすことにもなる。
 私の劇団が利賀村で活動し、世界に影響を与える芸術水準を維持できているのも、劇団員が意志の強さとホガラカな気分を、未だ失っていないからだと感謝している。