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鈴木忠志見たり・聴いたり

2月28日 負けた理由

 ワープロやインターネットが登場する以前、私の原稿は口述である。原稿用紙への筆記ではない。だから、既刊されている大半の私の本は、口述筆記によって書かれたもの。そのためもあって、ある時から私は漢字は読めても、字としては書けなくなった。
 なぜ、そんなことになったのかにはワケがある。若い頃の私は演出のシロウト、集中すると最低でも8時間ぐらいは稽古をした。午後から夜遅くまで、俳優も疲れるが私も疲れた。稽古後に遅い夕食を済ますと、ドット疲れが出る。一休みと横になるのだが、その時に事務局長の斉藤郁子がヤッテクル。手には原稿用紙と鉛筆。モウ、ソロソロ書かないと間に合わない、出版社や印刷所が催促していると枕元に座る。演出ノートや依頼原稿のことである。
 そう言われても、起き上がって机に向かい、稽古場とは異なった集中に、気持ちを切り替える元気が出ない。申し訳ないと思いながらも、私は彼女の顔を見上げながら、ボソボソと思いつくままを喋った。原稿を手渡す時に編集者や新聞記者に言ったものである。内容は私のものだが、漢字やマル・テンの使い方は斉藤の好みですから。
 利賀村長と私との間にイザコザが起こったことがある。この件は斉藤さんと話すことにしたいと村長が言う。私と話すと、激しい言い争いになる可能性もあると危惧して、村長は斉藤と話したかったようなのである。斉藤となら難しい言葉使いや理屈を述べず、穏やかな雰囲気でヤヤコシイ、イザコザも解決できると思ったらしい。
 会談後に村長から電話がある。アレデハ、ハナシニナラナイ。斉藤さんはマッタク先生と同じ理屈を、同じような言葉で言う。コレデハ、オトシドコロガ、ミツカラナイ。要するに村長は、斉藤は女性だから優しい心配りで、上手な妥協点でも提案してくれると考えたらしい。村長は誤解していた。彼女は私よりも正論家で意志が強い、その上安易な妥協はしないのである。
 斉藤は20年近くも私の原稿を口述筆記していた。私が使う言葉と論法は、身についているのは当然。それに私の同志、私と違うことを言うはずもないのだが、村長の頭の中には、斉藤はニコヤカナ女性、コチラノ、イイブンも理解して、少しは私の気持ちを変えさせてくれるかもしれないという思いがあったようなのである。女性は優しい言葉でモノゴトをマルクオサメルもの、斉藤はその役割なのにというニュアンスが村長の電話の口調にはあった。
 口述筆記で思い出すが、私と斉藤の仕事の都合で時間がとれなく、原稿の締め切りに間に合わない時に、音響係が気をきかせて、テープレコーダーに録音する準備をしてくれたことがある。私をマイクの前の椅子に座らせ、自分はイヤホーンを耳にして、私に喋ってみたらどうかと言う。これはマッタク駄目であった。
 私が斉藤に口述筆記をしたのは、必ずしも私の考えを筆記してもらうためだけではない。私の言うことを書き下ろしていく時の、彼女の反応が私に必要だったのである。私の言うことがつまらないと退屈そうに書いたり首をヒネル、感心した時には興奮し筆記の速度も速くなる。この彼女の反応が、私の考えを推敲させたり、論理性を力強くすることに貢献してくれたのである。
 要するに、眼前にいる人間を説得し、感心させたいという情熱に火をつけてくれるのである。この現象は観客と対面する俳優の演技と通じる。私の考えも演技の質と同じで、眼前にいる生身の人間の反応に刺激を受け、変化もしていく。だから、誰に向かって話すか、その対象の質は重要で、誰でも良いと言うわけではない。何の反応も示さない、テープレコーダーというわけにはいかないのである。
 15年ほど前、アメリカのイェール大学で私の訓練を教えたことがある。その際に、学部長から面白いことを聞いた。テレビが普及しだした当時、ある高名なアメリカの演劇評論家が、これからスポーツの実況中継やテレビドラマのために、スポーツ選手や舞台俳優がテレビ画面に登場する機会は多くなる。そのことによって、スポーツの観衆は減り、演劇の観客は増えるだろう。なぜなら、素晴らしい舞台女優の演技に生で触れたいと、観客が劇場に押し寄せる、と予測したそうである。
 しかし、この予測は完全に裏切られた、と教授は言う。事態は逆に動いた。多くのアメリカ人は、テレビ中継では満足せず、動物性エネルギー溢れるスポーツ選手の生の動きに興奮したいと競技場に押し寄せた。そして、満足して帰った。ところが演劇の観客は、テレビ画面で魅力的だった俳優を、劇場に見に行って失望した。その魅力は非動物性エネルギー<機械技術>に依存して成り立っていたことが分かったからである。そこには、テレビ画面で見る以上の魅力ある身体が存在しなかった。
 スポーツはテレビ映像に勝ち、演劇は負けた。演劇がテレビに負けたのは簡単な理由による。演劇人はテレビ画面のための演技も、舞台上の演技と同じだと見なし、舞台俳優と映像俳優の演技の区別を明確にしなかったからである。この両者は同列に扱うことのできない性質の表現衝動に裏付けられたものなのである。
 スポーツがテレビに負けなかった理由は簡単である。スポーツ選手はテレビカメラに向かって競技などはしない。テレビ演技と同種のテレビ・スポーツなどという存在はないのである。競技や舞台演技は動物性エネルギーを使って、身体能力の優劣や人間の個人的な魅力を競うものである。しかもそれは、他者との生な人間関係を前提として成立するもので、マイクやカメラとの関係で成り立つ行為ではないのである。
 日本の現代演劇界はこのことを、アメリカ以上に曖昧にした。アメリカにはまだ、ミュージカルやダンスや演劇の一部に、生身のエネルギーを鍛錬し、スポーツ選手とは異なった人間の魅力を発揮し、眼前の観衆に人間の素晴らしさを見せつけたいとする欲望が残っている。
 日本の多くの劇団の俳優は、舞台俳優としての鍛錬もなく、テレビ俳優としての成功が目的になったりしている。その鍛錬を経ない日常的な身体、テレビ演技のように機械技術の助けをかりなければ魅力を発揮できない衰弱した身体の行為を、現代的なリアリティーを備えた舞台表現だなどと、東京の評論家や学者は称賛している。称賛された当事者は、今度はその言葉に合わせるように舞台を創る。
 日本の現代演劇が、秀れた世界的レベルの舞台に肩を並べられないのは当然のように思える。