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鈴木忠志見たり・聴いたり

3月12日 幻心

 一週間ほど前は、雪の降る日が少なく、少しだけ利賀村も春めいていた。道路脇にはまだ、身の丈以上の雪が残っていたが、快晴の時は気持ちがよかった。歩きながら深呼吸をし、思わず呟いてしまう、キモチガイイ。タカガ晴天、不思議といえば不思議だが、ホガラカな気分にしてくれた。東京では快晴になろうが深呼吸などしたことはない。初歩的で素朴な行為だが、マダマダ、ガンバラナケレバ、残り少ない人生への励ましに、深呼吸が転化するようでオカシイ。
 かつては少年自然の家として、多くの子供たちが宿泊していた施設がある。現在は劇団の稽古場や食堂、トレーニングや演出コンクールに来た外国人の宿泊場所として使用されている。利賀村のお年寄りが時々掃除に訪れる。先日ロビーですれ違った時には、春が来てウレシイ、ウレシイと嬉しそうに話していた。
 それがどうだろう。4日前から猛吹雪の連続、歩いていると強風に舞い上がった雪で、一メートル先も見えなくなる。しかも、トギレルということがない。連日50センチの積雪。一晩経つと家の戸口から外へ出られないことにもなっている。二階の屋根に積もった雪が落下、入り口の前に硬く盛り上がってしまう。窓からの視界も遮られ、室内は朝とも思えず暗い。
 一昨年、空き家になった大きな民家を買い受けた。20年以上も一人で暮らして居た84歳のお婆さんが、山の下にある町の老人ホームに入居するので、私に買ってもらえないかという意向があったからである。いつも夏の野外劇場の公演を一人で観にきてくれていた。豪雪に見舞われる山奥、この年齢ぐらいが一人で頑張れる限度かと淋しく思うが、その反面、我が身の行く末を想像しながら、ヤハリ女の人は強いと感心する。
 大きく立派な家だったが、三畳一部屋に身の周りのものを揃え、寝起きしていた。食堂とトイレ以外の残りの部屋は殆ど使用した形跡がなかった。風呂場の脇には、短く切られた薪が、いくつか転がっていたから、時としてお風呂は使っていたかもしれない。気温が絶えず零下になる季節などには、湯を沸かすのにも骨の折れることだったろうと推測できる。私だったら一カ月ぐらいは、湯には浸からないかもしれない。誰かに会うわけではないなら、自分の匂い、少し臭いぐらいは平気である。子供の頃は風呂に入ることほど、メンドクサイ、と思ったことはない。
 昨年の春に、海外から訪れた演劇関係者が懇談したり、食事のできる家に改築した。旧い時代の日本の手仕事の見事な技術が活かされた古い家、その古さが現代的なシャレタ雰囲気に優雅に転身したと感じたので、家の名前を少しキドッテ、「幻心」と命名した。
 今まで永年にわたって存在していた民家が、一つでも消えていくことは淋しい。何とか保存し上手な利用の仕方をしたら、村の人たちにとっても、いわんや一人で長年にわたって頑張って居続けたお婆さんの気持ちにも添うのではないかと、オモイキッタ。 
 訪れた人や劇団員が、この家は住む家ではないね、と言う。舞台装置みたいなのだそうである。だから、「幻心」と名付け、夜遅くまで稽古ができるようにしてある、と私は言った。すると女優の一人が、集中し過ぎてヘンナ気分になりそうな空間だと言う。私は言う。オマエラガ、集中し過ぎるとどうなるのか、見てみたいネ。キツネツキにでもなって、驚かしてくれよ。ソレガ、サイコウノ、フィクション。幻心だよ。
 夏になって、老人ホームに移住していたお婆さんが、娘さんに連れ添われて訪ねてきた。どうなったか、一目見たいと思って、と。あまりに変化していたので驚いたのか感心したのか、何度もお礼を言い、仏壇のあった押し入れの方にお辞儀をして、嬉しそうに帰っていった。自分が生まれ育ち、一人で20年も生活した家、それがまだ故郷の山裾に残っていることを確認し、安心したようである。
 長年の生活の苦労も、遠くから楽しく思い出してくれるようだったら、私は幸せである。お婆さんが元気でいられること、出来ることならもう一度、野外劇場の公演を観にきてくれることを願わずにはいられない。