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鈴木忠志見たり・聴いたり

3月28日 二つの大国

 3月14日に東京-富山間の新幹線が開通した。東京から富山まで2時間と少し、富山県内には黒部、富山、高岡と三つの駅が出来た。その開通記念というわけでもないが、高岡の文化会館で今日「シンデレラ」の公演をする。俳優は殆どが中国人、私が教えた北京と上海の演劇学校の卒業生が中心である。昨年の春、上海で一週間の上演をした。
 今年の秋から私が芸術総監督になって、中国に劇団を作る計画が進んでいる。その中心として活躍してもらう俳優たち。まだ若いが、利賀村のSCOTの活動に触れたり、私の考案した訓練によって技術面は鍛錬をしているので、作品は創り易い。劇場で仕込みをしても、SCOTの劇団員と同じように、装置や照明の準備のためにコマメニ働く。
 これがナマジ、プロの俳優としての長い経験を積んでいると、演劇人ではなく、タダ俳優というだけの人間になってしまい、劇場人として舞台造りに加わることをしない。専門分化した既存の演劇界の悪習に染まっている。
 これはどこの国でも同様である。演出家や俳優や照明・音響などの技術スタッフはいても、真の劇場人=演劇人が存在しなくなった。そういう人たちは専門家を気取ったプライドをひけらかしてはいるが、演劇人としてはナマケモノに過ぎないことが多い。実際は身体の感受性は鈍くなっているし、精神の柔軟性も欠けている。だから、いろいろと在る他の分野の仕事に興味がイカナイ。それほどの歳でもないのに、いつの間にかフケテしまって、自分の馴染んだ仕事だけに埋没している。
 日本以外の国での演出を依頼されたことは多い。しかし今までに、外国に劇団を創設したのは一度だけ、もし実現すれば、今回の中国が二度目になる。
 1992年、現在はコロンビア大学の教授、当時はアメリカ演劇人連絡協議会の会長だった女性、演出家アン・ボガートとニューヨーク州のサラトガ市に共同で劇団を作った。その頃のアメリカはプロデューサー制が主流で、演劇人が一つの理念を軸にして同志的に活動する演劇集団が少なかったし、あっても一時的で何年も持続することがなかった。ブロードウェイに象徴されるように、劇場とプロデューサーが俳優やスタッフを集め、作品を製作するシステムなので、一度その作品の公演が終わると、もう一度その作品を再演するのが難しい。関係者が次の仕事のためにバラバラになってしまうからである。
 こういうアメリカの演劇状況に不満な人たちが、アン・ボガートと私を芸術総監督にして劇団に結集した。当然のことながら、私とアン・ボガートの演出作品に出演した俳優たちが多い。劇団名は「サラトガ・インターナショナル・シアター・インスティテュート」略称はSITIである。現在はニューヨークを中心に活躍しているが、初期にはニューヨークから車で3時間ほどの距離にあるオシャレナ町、サラトガにあるスキッドモア大学の劇場や宿舎を借りて活動した。私も5年間はこの大学の側に家を借りて、一年のうち3ヵ月は滞在した。
 この劇団SITIは舞台作品を発表するだけではなく、アン・ボガートと私が、それぞれに考案した俳優訓練を教えている。世界中から多くの俳優が学びに参集しているようである。外国で初対面の俳優に時々言われる。スズキセンセイの訓練を学びました。SITIの教育事業に参加して、私の訓練に出会った人たちが殆どである。
 SITIに関わっていた頃は、よく言われたものである。スズキ演劇はアメリカで生き残ることになったね。たしかにアメリカでは、私の舞台の主役を演じた俳優や訓練を習得した人たちが、演劇界で活躍していることも事実。
 先頃、中国共産党の機関紙の人民日報に、私に関する記事が連続して掲載された。それを読んだ日本の評論家に、ヒヤカシ半分に言われた。スズキ演劇は中国に、トラレテ、シマウ、かもね。人民日報に書かれた私の記事は、私自身が驚き感心するほどに、私の仕事とその背後にある考え方を見事にとらえていた。私は日本の評論家に言った。タシカニ、日本の新聞で、コレホドノコトを書かれたことはないからね。
 今年の6月にはアメリカと中国で同時に、私の新しい本が出版される。両国ともにその本の刊行時に私を呼び、気勢をあげるイベントを開催する計画を立てているらしい。21世紀の大国であり、かつその言動のために、世界中がハラハラさせられるアメリカと中国、そういう国で私の演劇がどのように生き延びていくのか、それを想像することは楽しくないこともない。