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鈴木忠志見たり・聴いたり

4月23日 思い込み

 児童劇を創ってみないかと言われ、初めて挑戦したのが「シンデレラ」。劇中にシャンソン歌手のアダモの歌を多用した。従来の上昇志向、権威主義的な物語の内容を、ヒックリカエス舞台だが、その最後の場面にアダモ役を登場させた。花束をもって、自分なりの「シンデレラ」を書く少女を励ますのである。
 自分の演出する舞台に、役者として出たのは、40年前のフランスのナンシー演劇祭以来のこと。パナマ帽を被り、サングラスをかけ、アルマーニがデザインしたフワフワのズボンを穿いて登場した。児童劇なので自分も少し、ハシャイデミナイト、と思いきった。
 終演後に劇団員が、観劇した友達と交わした会話を聞かせてくれる。アノ、アダモの役の人はフランスからワザワザ来たの? 私がフランス人に見えたらしい。劇団員が、アレガ、スズキタダシサン、と言ったら、ソウナノ、スズキタダシさんはフランス人だったの! と言ったというのである。
 利賀村で演劇活動を始めた初期、私はインドの劇団を招聘したことがある。中央省庁から富山県庁に出向してきた役人の奥さん、富山の生活に退屈したのか、東京で噂に聞いていたのか、SCOTの活動に興味を持ったらしい。県庁の職員の案内で観劇に来る。
 タマタマ、その日はSCOTの公演がない。仕方がないから、インドの舞台を観てもらうことにした。終演後に挨拶をと、私の家に立ち寄る。お茶を飲みながら彼女は言った。SCOTの皆さん方は、インド人に似ていますわね。私はアゼンとしたが、ダマッテイタ。アレハ、インドの劇団ですよと、即座に否定しては、ナンダカワルイヨウナ気にさせられる程に、ホガラカに感心していたからである。
 シカシ、マア、思い込みというものはオソロシイ。ジブンノ思いを訂正するのではなく、対象の実体の方を変化させて、ジブンノ思い込みに整合性を与えてしまう。インドの舞台では、一言も日本語は喋られていないし、明らかに顔も平均的な日本人のソレとは違っているのである。
 こんなこともあった。新国立劇場でゴーリキーの「どん底」を上演した。この戯曲のシチュエーションは、ロシアの貧民窟。住人たちは殆どロシア人だが、一人だけダッタン人が混じっている。住人たちはお互いに名前で呼び合うのだが、彼だけは、オイ! ダッタンとか、ダッタン人とかと呼ばれている。
 この舞台に出演していた劇団の女優の姉が観にきた。観劇後に姉は言ったそうである。アノ、ダッタン人、よくアソコマデ、日本語を覚えたわね。本当にダッタン人が出演していると思い込んで舞台を観ていたらしい。もちろん、ダッタン人を演じていたのは、レッキとした日本人、SCOTの劇団員である。
 先入観や思い込みに捕らえられ、対象を冷静に感受していないと、トンデモナイすれ違いが起こる。私も失敗をしたことがある。
 ハイ、SCOTです。オオー元気か! ハイ! ところで、いつも劇団の事務所に出前してもらっているウナギ屋は、やっているかな、アシタだけど。やっていると思いますが。オレの家まで、チョット遠いけど届けてくれるかな。ソリャア届けるでしょう。コノ電話番号は何番だ。○○○です。アリガトウ。東京の目白に事務所があった頃である。
 私はすぐに教えられた番号に電話をする。再び、ハイ、SCOTです。同じ事務局員の男の声。どういうことだ、コレハ! ウナギ屋ではナイジャナイカ! だってチュウサン<私の呼称>は、コノ電話番号は何番だって言ったもんですから。ダッテ、オレハ、コノ電話番号に電話して話していたんだよ。その電話番号を尋ねるわけが、ナイジャナイカ! キイタノハ、ウナギ屋のデンワバンゴウ! 事務局員は言う。私もヘンだと思いました。コノ電話番号は? と言うもんですから。オレハ、キチガイデハナイ、ガチャン!
 ナントモ、ナサケナカッタ。自分の事務所に、イマ電話しているのに、その事務所の電話番号を返答されて、ウナギ屋だと思い込んだのである。そして、スグ電話をしてしまうなんて。タシカニ、この男の言うことにも、一理はある。この男にはコノではなく、ソノ電話番号と言うべきだったかもしれない。いつもは暗記していて事務所に電話しているのに、キガツカナイとは、マッタクの不覚。ウナギに心をとられ過ぎていたとしか言いようがない。ソノタメニ、話の全体的な内容から判断された返答ではなく、言葉の断片の表面的な意味だけに反応されたことに気がつかず、ソノママ、ソレヲ信じてしまった。
 世の中には色々なスレチガイがある。ソレモ、対象に冷静に接する心の柔軟性が欠落した時に起こることが多い。思い込みや先入観、モノに捕らわれ過ぎること、年をとるとこれらに気をつけなければならないと、最近の自分を見つめても、改めて感じる。