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鈴木忠志見たり・聴いたり

5月22日 沖縄のこと

 ヴェルシーニンがすこし弱いなと思っていたら、代役だということで、しかも演出家がピンチヒッターに立ったらしいということをうかがい知っては、ぼくにも経験はありますが、あらためて演出家の勉強というものに感じ入ったものです。いっぱい語りあかしたい気もちですが、紙数がつきました。全公演の成功をいのります。
 1966年8月23日の「琉球新報」に掲載された劇評の最終節である。筆者は作家の大城立裕さん。芥川賞を受賞する直前である。ハズカシナガラ、この演出家は27歳のスズキタダシ、代役とはいえ、チェーホフの代表作である「三人姉妹」の主役を演じていたのである。今の私には、つたない舞台だったと思えるが、全体的にはやさしい眼差しで、好意的に書かれた劇評で励まされた。
 沖縄の施政権がアメリカから日本に返還されたのは1972年。だから、この時の沖縄は、私にとっては未だ日本ではない。外国である。この公演は初めての、私の外国公演だったとも言ってよいだろう。
 竹芝桟橋から那覇まで、客船に乗って二泊三日、出発直前にヴェルシーニン役の俳優が、赤痢になり出国を禁止された。というより、病院に隔離されたことを知った。沖縄での本番までには、舞台稽古をいれて残された日にちは四日。船の中で必死になってヴェルシーニンの台詞を覚えた。眠る暇もなかった。
 「三人姉妹」は戯曲そのままに上演すれば、三時間はかかる四幕物の芝居。その主役の台詞である。当時は今と違って、戯曲の指定どおりに演出していたから、膨大な台詞の量に圧倒され、何度も挫折しそうになったが、トモカク、オボエタ。今では、カンガエラレナイ。立ち稽古はない。ブッツケ本番で舞台に立った。私の演劇生活も既に60年近くになるが、この時の辛さは二度とないこと。しかし今や、登り始めは苦しみの連続だった峠も、越えて振り返れば懐かしい思いで峠、ヨク、ガンバッタ、と少し自己満足に誘われそうな思い出である。
 アメリカが統治していたこの時期の沖縄に、どうして行く気持ちになったのか、よく入れましたね、と言われることがある。理由は単純である。日本の愚かな政治指導者のために戦場になり、多くの犠牲者を出した場所と、そこに住んでいる人たちを、デキルダケ、ハヤクニ、目にしておきたいと思ったからである。そのために、沖縄に行きやすい理由としての演劇公演でもあった。もちろん、いろいろな友人の助力があったことは言うまでもない。私はこの沖縄公演の後、船で鹿児島に渡り、長崎と広島の原爆の跡地を訪れ、東京に帰った。50年も前のことである。
 当時の沖縄は野原が多く、建物はバラック、鉄筋コンクリートのビルなど殆どなかった。二階建の民家も目にすることは稀であった。長い鉄条網の壁に沿って歩くと何度か、ココデノ写真ハ、ダメデスヨ、と注意された。広大な軍事基地、まさしく、アメリカ占領下の沖縄であった。大城さんはこの劇評の前段でこう書いている。
 チェーホフの「三人姉妹」は、ぼくの最も好きな戯曲のひとつです。ぼくの近作「山がひらける頃」にその影響がある。自ら揚言すると、ひとは笑うかもしれないが、この俗悪で出口のないような現実のなかから、「もっと人間らしい自分を見つけだせるような世界へ飛びだしていきたい」という願望を、いまの沖縄の人たちがもつ以上、ぼくの拙い作品はともかく、だれものこころのなかにその姉妹のような顔がやどっているにちがいないのです。
 その自分の顔を見るような気持ちであなたがたの舞台の前にすわったのです。
 三時間という芝居の時間のあいだ、ぼくたちの十幾年という戦後の時間、いやあるいは幾十年という沖縄近代史の時間が「モスクワへ、モスクワへ‥‥」という主調音をともなって、ぼくのなかにあったのです。
 この「三人姉妹」を上演したのは、当時の「琉球新報」のホールである。こじんまりとした舞台をもつホールであった。今年の12月には解体され姿を消すという。
 最近の雑誌「世界」に大城さんは、「生きなおす沖縄――くりかえし押し返す――沖縄の覚悟と願い」という文章を書いている。90歳とは思えない気迫と集中力に充ちた発言である。いかに沖縄の人たちがアメリカのみならず、本土の人たちによる政治的・社会的な差別に苦しみながら、それと戦ってきたか、そしてこれから、どう戦うのかの決意が、文学者の視点から率直に述べられていた。
 三日前に、那覇のホテルの喫茶店で大城さんに会った。脚を骨折し病院を出たばかりとのこと。退院以来、外出は初めてらしい。杖をついてまでして、私に会いに来てくれた。一時間ほどいろいろな話題について話す。感受性の若さ元気さに感心する。私が雑誌「世界」の文章のことに触れると、あれは病院で何度も推敲してね、思い残す気持ちがないように書いた、と満足げにしていた。
 私はこの50年間、沖縄についての情報には絶えず接したが、実際の沖縄に足を踏み入れたことはなかった。中途半端な気持ちで、昔とは違ってしまったらしい沖縄の姿や、沖縄の人たちの気持ちに接するのを、自分の気持ちが納得しなかったのである。
 今回、沖縄を訪れる決心をしたのは、日本の政治に翻弄されつづける沖縄の人たちの心情に、マッタク共感したからである。それだけではなく、大城さんの文章に触れた感動と、若い頃に私を励ましてくれたことへのお礼の気持ちを、直接に伝えたかったのである。
 歳と共に身体が衰えるのは仕方がないが、現在の大城さんの元気が、いつまでも続いてくれることを願う。その元気は、沖縄の人たちのためにだけではなく、むしろ、日本人と称する人たちに必要とされることだと思うからである。