BLOG

鈴木忠志見たり・聴いたり

6月27日 適当と不適切

 適当とは、状態とか目的に物事や言動が、ウマク、アテハマルコト、ふさわしさを表す言葉である。それが的をはずしていたら、不的当=不適当である。しかし、この適当という言葉は、否定的なニュアンスをともなって使われる場合がある。物事を明確に処理しないで、イイカゲン、にすることである。
 私などは事務的な場面で時々、後者の意味で使うことがある。自分で考えること、自分で物事に対処することが面倒になると、要領よくやっておいてくれ、テキトウニ、などと事務局員に言ってしまう。上手に物事の辻褄を合わせたり、しかるべき人間関係の場を、私に代わって取り繕って欲しいときには、テキトウニ、ナ! とかと念を押す。
 適当という言葉には二面性があるが、似たような言葉でも、適切ということになると様相は違ってくる。この言葉には、物事がピッタリと一致すること、状態が正しく在るという価値観が入り込んでいる。否定的に使われることはない。テキトウダナー、アイツハ、は批判や否定の感情が表されているが、テキセツダナーは褒め言葉である。否定的に使いたければ、<不>という字を頭に付けざるをえない。不適切である。
 私の高校時代、カタブツの校長先生が、ある男子生徒が女子生徒と不適切な交際をした、君たちにはそういうことのないように、キヲツケテホシイ、と訓戒をたれた。校長は男女間の交際に、適切と不適切があると言うが、その違いは何によっているのか、考えさせられたものである。マア、この二つの言葉の間には、いわゆるセックスの在り方が横たわっているのだが、それなら不適当な交際でも良いのではないか、適切なセックスなどと言われても、無理がある、適当な夫婦はいても、適切な夫婦関係などは分からないのである。
 最近、不適切会計という言葉に出会う。東芝という会社が不適切な会計をして、損益の数字を偽っていたというのである。そのために会社は、大きな損害を出した。ところが、その事実が露見しても、それを行った当事者の行為は犯罪にはならない。数年をかけて完成する工事などを受注した場合、年度毎の決算のインチキは不適切だが許容範囲、会社に損害を与えているかもしれないが、社会上の不法ではない。だから、不適切、正しくないとするだけである。官僚の発明した言葉であろうか、日本人らしい便利かつ見事な言い方だとホトホト感心する。
 この適当と不適切、この両方を兼ね備えていて唖然とさせられるのが、建設費の負担をめぐって、文科大臣と東京都知事の言い争いにまで発展した新国立競技場騒動。これを見ていると、タダ、タダ、ハズカシイのである。設計図の選定過程から建設費の見積り、工事期間の不確実性、これらすべてにおいて関係者は、テキトウな態度で、フテキセツな対応をしている。建設費は1,300億から1,600億、そして2,500億円とガラガラと変わる。ロンドンや北京の競技場の建設費は数百億円前後である。タカガ、スポーツの施設、ベラボウな数字。東芝は民間企業だが、こちらは国民の税金を使うのである。これも不適切会計ではなかろうか。
 何よりも不思議なのは、設計図の決定者や当初に建設費を見積りした責任者の、公的発言がないことである。誰が何を、どういう理由で決定したのか、定かではないのである。関係者の殆どが、困惑と不満顔をしながら、当初の設計図と建設費を前提に、絶えず修正に修正を重ねる。ジツニ、いい加減で適当、モウ、ヤメタラ、オリンピック、と言いたくなるほどの光景である。このプロジェクトのリーダー、最高責任者は誰なのか、国民に物事の推移を、詳しく適切な言葉で説明すべきだろう。
 政治家やその周辺をウロツク人たちが、適当な態度で物事を不適切に処理する。それを知りながらも、外野からヤジを飛ばすだけのジャーナリズムや適当な態度の国民、この不適切な政治と国民の関係を覆すこと、そのためには何をどうすれば良いのか、その議論と戦いの仕方を、日本の現在はあらゆる分野で必要としていると思える。