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鈴木忠志見たり・聴いたり

6月30日 目前心後の欠落

 日本には国内の業界や業者を、保護したり支援する文化行政はあっても、文化政策は存在しない。文化に対する政治家の世界的な視野と見識が欠落しているからである。文化政策とは国家・民族の行く末を戦略的に思考し、日本人の精神的誇りの拠り所を創ろうとするものである。当然、国際的な情勢を踏まえて、日本の現状を分析し、有り得べき未来の姿を想像し、創造しなければならない。そのための政策の立案と実践の中心には、優れた政治家の存在を必須とする。内閣官房の中に国家安全保障局があるなら、それと同等のように国家維持文化政策局が存在してもよいぐらいだと思う。
 これは当然、情報を収集して他国の行動に対処したり、それを牽制するためのものではなく、敵対する他の国にたいしても、我が国の独自な文化の利点をもって、その精神活動にも寄与貢献しようとするものでなければならない。
 文化とは永年にわたって築かれた集団のルール、生活慣習やコミュニケーションの方法を共有し、それをベースに集団の人間関係の調和と秩序を保とうとするものである。だから、歴史と伝統に支えられた文化で育った集団の人たちほど、他の集団の文化に馴染んだ人たちと、共存して生きるのは難しいことが起こる。EUや中東に見られる社会上の摩擦も、その主因の一つに、この文化に特有の性質がある。
 こういう視点から言えば、芸術は違う。芸術摩擦というのはないのである。優れた芸術家は特定の集団に帰属することを誇りにし、それを自己主張するものではない。むしろ、異質な歴史や伝統を生きている人たちと、自らの作品を提出することで連帯しようとする。どんな国に住んでいようと、芸術家同士はまずお互いの違いを確認し、その違いを前提に、共通の対話の場を成立させようと努力するのである。そして、人類が永年にわたって築いてきた、人間という普遍的な概念をさらに深化させ、生きることに励ましを与えようとするのである。優れた芸術家が、自分が属する国の文化的土壌を離れても、まったく異質な歴史と伝統をもつ国や民族に受け入れられ、尊敬されるのもそのためである。
 最近の新聞報道によって、自民党に文化芸術懇話会があるということを知った。しかし、この会の名称と、そこで話されている内容のあまりの乖離に仰天した。この会に集まった人たちの発言の裏にある心情は、第二次大戦前の官憲の、ソレに近い。自民党への批判者にたいする態度は、横柄で権力的、現政府に批判的な沖縄の新聞を潰せとか、経団連に働きかけ、マスコミの広告料収入を減らし、懲らしめようとか、オマエラハ、ナニサマダ、と叫びたくなるほどのものである。前の民主党政権のインチキな約束よりは、少しは地道に国の未来の道でも探すのかと思ったら、コノ、テイタラク! 文化芸術懇話会とは、キイテ、アキレル。民主党の議員もそうだったが、権力に近づくと、人間はカクモ軽薄で不用心になるかとの見本。国の将来のために、文科省はこの一部始終を、道徳の教科書にでも載せるべきではあるまいか。
 世阿弥に「花鏡」という著作がある。舞台上の俳優の心得、演技とはどのような心でなされなければならないか、見事な譬えで論じたものである。世界の演劇史の中でも傑出したものだと思う。特に「離見の見」という言葉で、舞台上の俳優が如何に醒めた状態でいなければならないかに言及した一節は、他者の期待の視線を引き受け、その期待を少しでも現実のものにしようと努力する人間、別の言葉で言えば、多くの人に見られることを、人生の責務として選んだ人間に必要とされる心構えに触れている。
 舞に「目前心後」といふことあり。目を前に見て、心を後に置けとなり。これは、以前申しつる舞智風体の用心なり。見所より見るところの風姿は、わが離見なり。しかれば、わが眼の見るところは、我見なり。離見の見にはあらず。離見の見にて見るところは、すなはち見所同心の見なり。その時は、わが姿を見得するなり。わが姿を見得すれば、左右・前後を見るなり。しかれども、目前・左右までをば見れども、後姿をばいまだ知らぬか。後姿を覚えねば、姿の俗なるところをわきまへず。さるほどに、離見の見にて、見所同見となりて、不及目の身所まで見智して、五体相応の幽姿をなすべし。これすなはち、心を後に置くにてあらずや。
 集団的我見とも言うべき権力の竜巻に、ナルシスティックに巻き込まれ易い最近の政治家、前述した自民党の人たちだけではなく、権力闘争に明け暮れて、「離見の見」を忘却して自滅した民主党の議員たちにも、この言葉は絶えず、心に留めておいてもらいたいものである。
 現在の世界情勢の中で日本を考える時、政治家にもっとも要請されている心構えは「目前心後」であり、「離見の見」の境地から「不及目の身所まで見智」して、世界の人々の眼に醜悪な姿を晒さないことだと私は思う。