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鈴木忠志見たり・聴いたり

7月20日 挑戦

 アメリカのTheatre Communications Group(全米演劇人協議会)出版部から、私の演劇論とインタビューを翻訳した本「Culture is the Body」が届く。イギリスのピーター・ブルック、アメリカのリチャード・フォアマンに続いて出版された。装丁も造りも似たもの。しかし、私の本の表紙はこの二人と違って、私自身の大きな顔写真。劇団員は、コレハ、イイ、と褒めてくれるのだが、私にはマジメデ、シンコクに見え過ぎて少し恥ずかしい。
 最近の私の心境からすれば、これは一時代前の、ゲイジュツカブッタ、インテリの顔のように思え、長く正視できないところがある。アメリカの出版社の判断によるが、私にはこの写真の撮影者が思い出せない。ずいぶん前にロシアのタガンカ劇場で演出した際、初日のパーティの席で、写真家の誰かに手渡されたものだと思うのだが、ソレモ、不確かな記憶である。
 インターネット時代、ダレニ、イツ、撮られたものか分からない写真が、突然ネット上に出現する。この写真もいつの間にか載っていた。私の手元にない写真に出会うたびに、誰が載せたものか調べてみようかと思うこともあるが、そんなエネルギーの使い方も、ムダデ、オロカのような気がして、ソノママ。
 この出版社からは1986年にも、私の演劇論と構成台本を収録した本が出版されている。「The Way of Acting」である。それ以来、二冊目の本をと催促されていたものが、ようやく実現。一冊目の本は、既に日本語で公表された文章の翻訳だったが、今度は違う。出版社の要請に応じ、書いてすぐ英文にしたものである。だから、いくつかの文章は日本語では読むことができない。
 長年にわたって私の演出助手を担当してくれたカメロン・スティールと二人で、暇を見つけては英文作成の作業をした。評判が良いようだが、むろん英文の素晴らしさは、カメロンの知的な能力によっている。私はカメロンの英文に、時として勝手な意見を差し挟んだだけ。
 今度の本を読み返して、私の発言は十年一日の如くだな、と改めて思う。ただ、時代環境は一冊目が出版された頃よりは激変している。いわゆる世界のグローバリゼーション化ということだが、その影響は随所に出ている。以前より演劇の時代的、社会的な役割についての言及が多い。その点では、外国の演劇人を意識した発言になっているかもしれない。
 10年ほど前に、イギリスのケンブリッジ大学出版部から私の本が出版された。これは私の文章の翻訳ではなく、私の作品と活動について、二人の学者が論じたものである。もちろん英文である。日本の出版社から日本語に翻訳して刊行したらと言われたのだが、私は賛成しなかった。私の発言や私自身の活動を、改めて日本語に翻訳するとしたら、私が翻訳者になるのではないかと、ナンダカ不思議で、ハズカシカッタのである。
 今回の本についても、日本語にはしないのか、と聞かれることがある。著者や翻訳者が精魂込めて英語の文章を書いてくれたのだから、英文のまま読んで戴いた方がよい、という思いは変わらない。私自身もこれらの英文を、一読してすぐに理解する能力はないが、それは当然だし、仕方のないことだと感じている。
 今夏のSCOTサマー・シーズンでは、この本の内容を軸に、世界各国から集まる演出家や大学教授たちと、演劇の現代社会での役割や、私の俳優訓練法を教える時の問題点などを議論することになっている。どんな読後の感想が聞けるのか、私の考えにどんな質問がなされるのか、参集者同士でどんな議論が展開されるのか、楽しみである。
 私の本当の気持ちとしては、まず日本の演劇人たちと、私の演劇への考え方について議論をしてみたいのだが、私の日本での立ち位置が、それを可能にするとも思えないので、残念だが諦めざるをえない。
 明日にはアメリカとドイツから、私の演出作品に出演する俳優が到着する。すでに、中国、韓国、イタリアの俳優は来村している。これで全員が揃うから、6作品全部の稽古が一斉に始まる。体力と気力、これがドコマデ持続できるか、イヨイヨ挑戦である。