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鈴木忠志見たり・聴いたり

8月1日 明鏡止水

 長らく魚の棲んでいない池の水を止めていた。しばらくぶりに眺めると、池の底の窪みに水がたまり、カエルの卵が一杯。ヌルヌルとした液状のものの中に、黒い目玉のようなものがギッシリと詰まっている。いずれは、オタマジャクシが出現するであろうと放置しておいたら、案の定、数え切れないほどのオタマジャクシがチロチロと泳いでいる。カワイイと言う劇団員もいるが、あまりの数の多さに少しキミワルサも感じる。池の中にイワナやマスがいれば問題はない。オタマジャクシはすぐ食べられてしまう。
 利賀村の夏、水溜まりはイケナイ。すぐにボウフラが湧き、蚊が発生する。ハエに似た緑の目をもつ吸血虫オロロも卵を産みつける。ともかく、水の流れが止まるということは、演劇の舞台にも最悪の環境を招く。野外劇場の背後の池の水が止まった時には大変だった。俳優がセリフを言うと、それにつられてカエルがケロケロと鳴く。劇団員の数人が舞台の進行中に池を取り囲み、カエルが鳴く度に石を池に放り、カエルを黙らせたものだった。それだけではなく、私の舞台は俳優が長時間ジット動かないことが多い。蚊に食われても身動きができない。終演後の俳優の脚は悲惨な状態になる。
 心でも身体でも、外からは止まっているように見えても、見えない気の配りや身体感覚は動きつづけ、滞ってはいけない。ところが、水が止まっている状態の言葉が、肯定的な精神状態を表すことがある。一カ所に止まって流れない水が、濁り腐るのではなく澄んでいるというから驚く。止水である。そして政治家や経済人は、トクイゲにこの言葉を使うのである。
 新国立競技場の建設計画が白紙になり、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長である森元総理が、IOCの理事会にそのことを報告に行った。理事会の会場に入る直前に、森元総理は新聞記者の質問に応えて言った。今の心境は明鏡止水だ。くもりのない鏡、澄んだ水のような心境、静かで邪念がないそうである。
 政治家や日本社会に影響力のある経営者は、時としてこういう言葉をシャアシャアと使うが、何かがズレテイルと感じざるをえない。この言葉は自分自身への皮肉として、ユーモアをもって、ニヤリと笑って言われるべきもの、願い叶わぬ願望の言葉である。その境地を生きているような顔をして言ったら、ウソニナルニ、キマッテイル。
 それだけではなく、政治家や経営者は、決してこんな心境になるはずもないし、また、ソウアッテモラッテハ困ると私は思う。ココマデキタラ森元総理は、残念無念、死んでも死にきれないよ! とナマグサイ顔をして叫んだ方がよかったのである。明鏡止水の心境で、マダマダ、ワルサヲサレテハ、国民がタマラナイ。
 ジツハ、私もカネガネ、この言葉をイツカ、ツカッテミタイとは思ってきた。しかし、どんな場所で、どんなタイミングで言うことがよいのか、今までのところ、そのメドがつかなかった。この先もしばらくは使えそうもないが、タダ、ハッキリしていることはある。この言葉を口にした時には、演出家は引退である。決して解決することのない人間関係の軋轢を、身をもって生きつづける職業の人間に、明鏡止水の境地などあるはずもない。
 この言葉を口の端にのせた以上、森元総理はあらゆる公職から退くべきだと思うが、ドウダロウ。通常の人たちとは神経の組織系統が異なっている政治家、しかもその親分を自認してきた人、蚊を発生させる水溜まりになっても、悪臭を放つ腐った水になっても、周囲の人たちに迷惑をかけることなど、屁とも思っていないかもしれない。
 日本人の好きな言葉に堪忍がある。仏語だが、中世の頃から<こらえしのぶ>、我慢することの意味で使われてきた。そして、この堪忍の精神は日本人の特徴的な美徳であり、この精神を身につけることは、人間関係のみならず、国家に平安をもたらすためにも大切なことだとされてきた。
 徳川家康は遺訓で言っている。人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し。堪忍は無事長久の基。己を責めて人を責むるな。どこまで本人が書いたのか疑わしいらしいが、こんな歌も詠んでいる。堪忍の袋を常に首にかけ、破れたら縫え、破れたら縫え。権力者らしい説教調の人生論である。
 森元総理をはじめ、最近の自民党政権の幹部たちの言動に触れると、自分たちは平成の徳川幕府を樹立した気になっているのかもしれないと思える。長期政権を前提の言いたい放題、やりたい放題。そして沖縄を見るまでもなく、国民には我慢を強要する。
 国民ノミナサン、国ガ安泰デアルタメニハ、堪忍ガタイセツ、私タチヲ、選ンダイジョウ、私タチヲ責メテハイケナイ、マズ自分ヲ責メルコトデス。
 国民の堪忍袋はいつ、縫えないまでに破れるのであろうか。