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鈴木忠志見たり・聴いたり

9月30日 イノチガケ!

 私が別役実と劇団を結成したのは1966年、「劇的なるものをめぐってⅡ」を初演したのは1970年、30歳の時である。この作品は上演後すぐにパリ、ナンシー、アムステルダム、ワルシャワなどの演劇祭に招待され、世界的に知られることになった。ヨーロッパの著名な演出家、ジャン=ルイ・バロー、ピーター・ブルック、アリアーヌ・ムヌーシュキン、グロトフスキー、アンジェイ・ワイダなども観ている。むろん、日本で評判になったからだが、その日本での評価は極端な賛否に割れていたのである。
 日本の伝統芸能、能や歌舞伎に親しい学者や評論家からは絶賛され、ヨーロッパ演劇を規範にした日本の現代劇の主流、新劇系の業界からは拒絶に近い反応があった。
 この作品の冒頭部分はフランスの劇作家ベケットの「ゴドーを待ちながら」だが、全体の基調テクストは鶴屋南北と泉鏡花である。伝統芸能に親しい人たちが驚きをもってこの作品に好意を示したのには、私には意外だった。南北や鏡花のテクストを使用しているとはいえ、例によって鈴木式演出、戯曲が指定する状況は完全無視、ただ言葉だけを借りて、ヤリタイホウダイ、独りの狂女が狐憑きのように南北と鏡花の台詞を喋りまくるといったものなのである。
 当然のことながら、私は逆の反応を予測していた。新劇系の演劇人たちからは、日本の伝統劇の戯曲でも、コンナニ面白く演出できるのか、ヨクヤッタと誉められ、伝統芸能系の人たちからは無礼千万、ゲテモノ呼ばわりされると思っていたのである。それがマッタクの逆さまだった。
 現代劇の批評家の一人は、次のような記事を週刊新潮に書いた。当時の雰囲気がよく読み取れるので、少し長いが引用してみる。
 <出刃包丁が彼女のノド元へ走った。その瞬間、眉間につっと赤い線が一本。と思う間に血が鼻筋を伝わってスーッと垂れる。彼女はケタタマしい笑い声を立て、さりげなく横を向いて血をぬぐった。まさに名人芸と思われたが、さらに血が流れ出して、初めて客は事故と知り、ギョッ! 早稲田小劇場の「劇的なるものをめぐってⅡ」の初日<5月1日>に起ったアクシデントである。
 この血の主役を演じたのは、白石加代子、三年前まで都内の区役所の事務員だったが、一念発起して女優志願、「金色夜叉」のお宮の狂乱、「少女仮面」の狂女で評判となり、たちまち狂気女優のレッテルを貼られた。
 能面のような無表情から、ガッと顔をゆがめて黒目を寄せ、髪を振り乱して男をのろう。かと思うと、タクワンをむさぼり食って、パッと吐き出す。小屋が揺れるほどのたうち回った末、突然放心したように笑い出す。その形相や仕ぐさは、まさに異常。あまりのすさまじさに気の弱い客は震え出す始末だった。
 さて、その評価については、「これだけの迫真力を出せる舞台は少ない。これこそ劇的なるものだ」「いや、本物の出刃包丁なんて今は大道芸人だって使わない。邪道だよ」と劇評家の意見も真っ二つに割れているが、いまやアングラ芝居は命がけですな>
 悪意をもって舞台の一面を表面的に描写すれば、タシカニ、コンナモノ。タダ、スキャンダルを狙ったとしか感じない人がいても仕方のない舞台だった。では何故、私のこの舞台が伝統芸能に造詣のある人たちに驚きを与えたのか。歌舞伎をもとに日本文化の考察に鋭利な視点を展開する評論家渡辺保が、私との対談で述べている。
 「それまで長いあいだ芝居を観てきて、歌舞伎の世界で鶴屋南北の台詞が正確に発声されたのを聴いたことがなかった、<中略>鶴屋南北の台詞をちゃんと喋れるということはどういうことなのか、鈴木さんは、どういう魔術でこういうことを達成しているのか、ということが僕の興味でした」
 渡辺保にはこの舞台を軸に、日本文化の歴史的な文脈の中で、私の演出の特異性を分析した長文の論文があるが、この渡辺保の初端の興味を、当時の歌舞伎研究の第一人者、早稲田大学教授郡司正勝の視点からするとこういうことになる。
 「白石加代子の出現は、たしかに劇界に手応えをもたらした。それは動揺といってもいい。少くとも、それまでの新劇が感じたことのなかった、その空洞化に、ふと気付かせずにはおられない体のものだったといえよう。<中略>演技とはなんであったか、女優とは何者なのか、いや新劇とはなにを言うのか、ひいては、演劇とはなんだろうか、といった本質の問いにかかわってくる導火線となる性質のものであるから、たかが、奇妙な素人女優一匹が、空洞から飛び出したところで、時をまちがえた野鼠ぐらいに考えておこうとする気分もわからないではない。<中略>役者というものが、演劇のもっとも本源的なものだとすれば、役者の存在感とは、いかなるものなのか、その肉体言語とは、いかなるものなのかと問うことになり、劇のもつ肉体言語の能力を、肉体という闇の力のなかから、いかに引き出すことができるか、その闇の力を、これまで、いかに無視してきたかの見返りが、加代子の出現とともにはじまったのだ、ということになるのではないか」
 現在の白石加代子の演技を観て、この種の感想を持つ人はいない。実際、彼女の演技についての多くの最近の劇評は、他の俳優との比較で、その演技の巧拙に触れているだけのものである。彼女自身もそのことで満足しているようである。
 しかし、今にして思うのだが、一つの舞台を観て、日本文化の本質に触れるような思考を展開し、それを長文の評論にした多くの人たちがいたことに感動するのである。と言うより、感激するのである。私の舞台だからというわけではない。演劇をとおして日本の文化の来し方行く末を考える人たちが、当時は数多くいたのだと、今やシミジミとした感慨に誘われる。そして、そういう人たちの存在があったからこそ、私の演劇活動が現在まで続けてこられたのだと改めて思うのである。
 最近、偶然のことで、早稲田大学の演劇博物館から、この舞台の稽古の映像が送られてきた。演劇博物館は一般に公開することを希望したが、私は断った。映像が不鮮明なのと、稽古を録画したもので、この作品の全体像、私の演出意図を誤解されるおそれもある映像だったからである。それにこれは、誰が撮影したものか、私には記憶がなかった。しかし映像とはいえ、45年振りにこの舞台を観て、貴重な記録であるとは思ったのである。
 この舞台は、当時の私の演出のアザトイ過剰な批評性がよく観てとれるが、それに応える俳優たちの強靭な集中力、それも日本の近代が捨て去ってきた感覚、一般庶民の生活の深層に沈殿した感覚が、俳優の果敢な演技によって見事に顕在化している。特に白石加代子の江戸時代の浮世絵から飛び出してきたような猫背矮躯的身体所作、それを空疎に感じさせない潜在的な身体感覚の現前、またその身体感覚との濃密な関係のうちに語りだされる言葉は、おそらく日本のどんな俳優、白石加代子本人も含めて、現在の東京で活動する演劇人では再現できない演技になっていた。
 この舞台の白石加代子の演技は、現在のSCOTの俳優のそれと比較すれば、呼吸の仕方の欠陥や生理的・情念的にすぎる物言いが、技術的な拙さとして感じられるところもあるのだが、それでもなお彼女が、日本の共同体が長い間に作り上げた、日本的表現としか言いようのない独自の感覚を身につけていた貴重な女優であるばかりではなく、珍しく優れた人間的な存在だったことは明白である。舞台歴三年、28歳の女優の演技である。やはり驚嘆に値するものなのである。新劇の名女優と言われた文学座の杉村春子は、観劇後にこう言っている。正直な感想だと思う。
 「あれは全然異質のもんだなあ。異質っていうか、昔あったのぞきからくり、ああいうものをのぞいたような感じ。絵看板ていうの、パーッと血しぶきがあがっちゃって、どぎついものがいっぱいかかっていましたよね、そういうものをまた見たような気がする」
 あれから45年、利賀村での活動も40年になる。今や多くの人たちが、この利賀村での活動の意図を理解してくれ支援してくれるが、東京の現代演劇人の無理解は相変わらずかもしれない。東京でそれなりに活躍する演劇業界の人の顔は、観客席に殆ど見かけたことがないのである。利賀村でのSCOTの舞台と活動への評価は、今でも週刊新潮の「劇的なるものをめぐってⅡ」の記事と変わるところはないのかもしれない。
 <これだけの迫真力を出せる舞台は少ない、いや、邪道だよ、意見も真っ二つに割れているが、いまやアングラ芝居も命がけですな>
 日本だって、いつ消えてなくなるかもしれないこの御時世、ナニゴトモ、命がけでやらなければならないのは、アタリマエデハナイカ。