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鈴木忠志見たり・聴いたり

12月15日 極端な人たち

 吉祥寺シアターで公演する「エレクトラ」の稽古が最後に近づいている。この舞台は第一回シアター・オリンピックスの時、デルフォイの古代競技場の中に舞台を設置して上演したのが外国公演の最初。1995年である。それ以来、いろいろな国の都市、ニューヨーク、モスクワ、エジンバラ、北京などを巡っているが、珍しい都市でも公演している。ブルガリアのソフィア、イタリアのナポリ、スウェーデンのストックホルム、ポーランドのブロツワフなどである。
 ブロツワフはドイツとの国境に近い町。よほど演劇に親しい人でないと、ピンとこない都市であると思うが、私が親しくしていた演出家イェジュイ・グロトフスキーの活動拠点があった。彼の死後、グロトフスキー・センターという組織が設立され、その組織が2009年に世界演劇祭を開催した。それに「エレクトラ」が招待されたのである。ピーター・ブルック、テオドロス・テルゾプロス、ピナ・バウシュなどの作品も一緒だった。ピナ・バウシュはこの時すでに病気で、本人自体は演劇祭に姿を現さなかった。帰国後すぐに、彼女の訃報に接したことが強い記憶として残っている。
 グロトフスキーは「持たざる演劇」を標榜した演劇人である。演劇の本質は俳優の存在にあり、その他の一切、装置、照明、衣装などは舞台上には不必要なものだとして可能なかぎり排除した。そして、観客との全身的な交感を重視したから、観客数も一公演に30名以上にはしなかった。俳優の身体訓練は厳しいもので、苦行僧のストイックなそれを想起させるもの。一時期の欧米の演劇人は、私の演劇への考え方をグロトフスキーのそれと類似のものと見なす傾向があったが、実際の舞台を観ていない人の思い込みである。当時は演劇人を言葉派か肉体派かに分ける風潮があった。グロトフスキーは紛れもなく肉体派だが、私はそうではない。
 真夜中に山奥の広場に花を敷き詰め、観客と俳優が車座になって交流をする。勿論、彼も一緒に同席するのだが、その公演はあたかも宗教儀式の様相を示していた。しかし私の利賀村の活動は、彼の考えるような宗教儀式の復活を狙ったものではない。似ている所があるとすれば、身体の可能性の豊かさを、最大限に現前させようとした思考と実践の部分であろう。彼は晩年イタリアに創造拠点を移し、そこで没している。
 ブロツワフ市は来年のヨーロッパ文化首都の開催地になる。その催しのメイン行事に第七回シアター・オリンピックスが決定しているから、再び訪れることになる。ポーランドを訪れるのは三回目、初めは1975年のワルシャワでの諸国民演劇祭、フランスのジャン=ルイ・バローが委員長の催しだった。この時の上演演目は「劇的なるものをめぐってⅡ」である。
 1975年と言えば、私のもう一人のポーランドの友人タデウシュ・カントールが、彼の存在を世界的にした「死の教室」を創った年である。この時彼はすでに60歳、グロトフスキーよりは18歳も年長であった。
 私は1982年の第一回利賀フェスティバルに、彼の作品「死の教室」を招待している。この年のポーランドは戒厳令下にあり、出国するのに大変で、果たして公演が実現するのかどうか、公演日直前まで心配だったことを思い出す。その他にも彼と付き合って思い出すことはいろいろとある。
 利賀村でのカントールと劇団の世話と通訳を担当したのは20代の頃の二人の男、東大教授になった内野儀と、フランスの大学を卒業したばかりで、その後水戸芸術館の芸術監督になった、今は亡き松本小四郎である。「死の教室」は利賀山房が上演会場、公演前日のリハーサル中に二人が興奮して劇場から出て来る。どうしたのかと聞くと、出て行けと突然に怒鳴りだし、英語でイエローピッグと罵られ、劇場を追い出された、許せないと興奮しながらもションボリしている。
 当時の二人はまだ、あまり演劇の現場に立ち会ったことがない。世界中には唯我独尊で、稽古中にトンデモナク激しく気分が変化し、昂揚する演出家がいることを知らない。怒りの発端はゴク些細なことだったのだが、私はタダタダ、それだから才能が発揮されるんだからなどと、アリキタリの言葉で二人を慰めた。そして私は、二人にフランスの高級ブランデーを手渡し、カントールに届けさせたが、帰ってきた二人はカントールは上機嫌になったとホッとしていた。ソノセイでもあるまいが、彼は利賀を去る前に署名入りの一枚の絵を描いて、私にプレゼントしていった。今でもそれは私の家の広間に飾ってある。
 カントールはフランスに憧れていた。記者会見でもフランス語で話す。利賀村へ到着した時には、フランス語を話すメイドはいないのかと聞いたくらいである。当時のポーランドという国への否定的な心情が、彼にポーランド語を話させなかったのである。食事の時にポツリと言った。共産主義にヨイコトナド、ナニモナイ。この頃のポーランドはまだ、共産主義憲法を制定した「ポーランド人民共和国」の国であった。現在の国名は「ポーランド共和国」である。
 カントールの舞台は独特なものである。「死の教室」では舞台経験のない老人たちを舞台上に乗せ演技をさせる。そして自らも舞台上に存在し、俳優たちを怒鳴りちらす。公演中の舞台上で演出の指示をするだけではなく、音楽が鳴れば指揮者の真似までする。その熱狂ぶりは偏執狂的、孤独な独裁者の風情であった。それが時々、日常にまではみ出してくるので、初対面の人たちは面食らうのである。
 しかしともかく、口から出る言葉は現状否定の精神に支えられた攻撃的なもの、人間としては扱いにくいと感じる人が多かっただろう。晩年にスペインの演劇祭で一緒になり、同じホテルに滞在したが、若い女優に夢中だった。
 ポーランドはロシアとドイツという二つの強国に絶えず主権を侵害され、サンザンな目に遭っている。EUに加盟し、経済的にも将来を期待される自主独立の国になったのは、つい最近のことである。国の主権を侵害されただけではなく、多くの国民がロシアやドイツに虐殺されている。
 グロトフスキーにしろカントールにしろ、作品ばかりにではなく、彼らの身体や所作からも、ポーランドの苛酷な歴史が滲み出ているように感じたのは、私の想い込み過ぎだっただろうか。ずいぶんと過激で極端な生き方をした二人だが、社会的な抑圧を逆手にとり、自国を越えた人々に人類の抱える普遍的な問題をアッピール出来たのだから、幸せな演劇人だったと言えるだろう。