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鈴木忠志見たり・聴いたり

6月14日 蜷川幸雄とのこと

 スズキサンはダイジョウブカ? それで何て答えた。元気ですよ、と言いました。ちょっと前までは、スズキサンはゲンキカ? だったんですけど。蜷川幸雄さんが死んだからですかね、ダイジョウブカは。事務局の女性が言う。事務局だけではなく、幾人かの劇団員が同様の電話やメールをもらったらしい。今年になって私が一度も、ブログを書いていないことにもよるだろう。
 ブログは五年のあいだ毎月、平均三本のペースで書き続けた。それが突然、何の予告もしないで五カ月間も中断したのだから、不審に思う人がいても当然かもしれない。書かなかった理由は、世間の動きや自分の身のまわりのことに心をとられないで、しばらくボンヤリとしていたかったから。しかし、そうもしていられない気持ちにさせられたのが、蜷川幸雄の死である。寂しさがヒタヒタと押し寄せてくるのである。蜷川とは不思議な縁があった。
 この歳まで生きていると、報道機関からいろいろなことについて質問や問い合わせを受けている。劇団の行動予定、他人の言動、社会現象への感想などである。稀に私生活の細部、家族の動静なども尋ねられた。おおむね正直に答えているが、劇団の行動計画などは、質問の時点で予定していたことと結果が異なってしまうことはある。しかしこれは、その後の劇団を取り囲む環境や状況の変化のなせることで、意識的な意図としての不正直ではない。
 私自身の私生活にかかわる事実関係についての問い合わせには、曖昧な返事をしたことはある。一度だけは、ハッキリとウソをついた。と言うより、先方の尋ねた確かな事実をハッキリと否定したことがある。その事実を肯定すると仕事の将来、私を見る周囲の人たち、特に演劇業界の視線が変化し、仕事を続ける時に心理的な煩わしさが起こると感じたからである。
 1997年の末、朝日新聞の演劇担当記者から電話があった。スズキさんもニナガワさんと同じように心臓の手術をしたと聞いたんですけど、ホントウデスカ? 私は即座に否定したが相手は納得しない。演出家の仕事がいかに身体的にタイヘンカ、記事に書きたいようなことを言う。私も演出の仕事が重労働だと思ってはいるが、そんな病気のことで、世間の人たちに演出について、ヘンな先入観をもたれてはカナワナイ。私は強く不機嫌に言い返した。ソンナコトハ、アリマセン! 相手は引き下がってくれた。
 この新聞記者は誰から私の病気の情報を得たのか、私は尋ねなかったが、たしかに私はこの直前に心臓の手術をしていた。それも、蜷川幸雄が舞台稽古中に心筋梗塞の発作に見舞われ、かつぎ込まれたのと同じ東京女子医科大学の病院、蜷川が退院してから、それほど経っていない時である。
 静岡でシアター・オリンピックス開催の準備をしていた1997年、蜷川幸雄が心筋梗塞で入院したとの新聞報道に触れた。私はどんな病気か知りたいと、心臓病についての医学書を手にした。そして、自分も検査をしてみる必要性があると思い、静岡で病院に行った。すぐに手術が必要だと医者に言われ、ビックリ。
 当時の静岡県は舞台芸術活動のための組織を設立し、シアター・オリンピックスという世界的な演劇祭を開催しようと、巨費を投じていくつかの劇場の建設をしていた。その組織と演劇祭の中心にいる私に倒れられては大変だと、静岡県知事が女子医科大学の理事長に直接電話、即座に入院ということになった。
 むろん、私の手術は心筋梗塞の発作が起こったからではない。激しい運動中に軽い発作の症状はあったが、まだ心筋の梗塞にまでは至ってはいなかったから、蜷川の手術とは違っていたと思う。ただ、心筋梗塞の発作が起こったら、数時間後には心臓の機能は停止するような血管の状態だったらしい。この血管の異常の発見の後、すぐに静岡から東京に移動し、一週間ほど女子医科大学の病室で安静にして手術を待機、髪の毛を洗う動きすら、用心深くするように指示された。
 この病院で、私にとっては不思議としか言いようのない出会いが起こったのである。私を手術する外科医も、手術後の経過を診察する内科医も、蜷川と同じ医者、病室すら同じだったのである。
 心臓には大動脈の根元から冠動脈と呼ばれる二本の血管が、左右に枝分かれして走っている。さらに、左の冠動脈は二本に枝分かれする。この左の冠動脈は心臓の筋肉に必要な酸素と栄養の大部分を血液として供給している。左の冠動脈が枝分かれする直前の主幹部が詰まれば、生命の危険をもたらす。私の左冠動脈の主幹部はすでに70%以上も詰まっていた。二本の別の血管を心臓につなぐ手術が必要だとの診断。新しく血液の流れる道を作らなければならないと説明された。そして、鎖骨の下の二本の動脈を胸からはがして、心臓の血管につないだ。
 手術後、問診の時に内科の医者に言われる。大きな発作が起こる前に、よく気が付いて検査をしましたね。蜷川も寝ながら眺め続けたであろう天井を見ながら、蜷川のオカゲで命拾いをしたな、と思ったりした。
 私はめったに他の演出家の舞台評は書かない。しかし、若い頃の蜷川の舞台については、三本の批評を書いている。蜷川が初めて演出した「現代人劇場」の舞台(1969年)、「現代人劇場」を退団し、若い仲間と結成した劇団「桜社」の舞台(1973年)、「桜社」を解散した後の東宝株式会社プロデュースによる舞台(1978年)である。
 これらの劇評の中でも、特に日生劇場で上演された「王女メディア」のそれは、私の蜷川演出の舞台に対する感じ方がよく出ているのものである。それだけではなく、商業演劇の世界に身を移してから晩年に至るまでの活動の仕方、それへの感想としても通じるところがある。大劇場という言葉、あるいは大きな空間への対し方を、芸能界と見なして、いま読んでも私には違和感はない。少し長くなるが、蜷川と私との関係にとっては大切な一文なので引用してみる。
 「蜷川演出の舞台に接するのは久しぶりである。平幹二朗と辻村ジュサブローの衣裳が頑張っていた舞台で、それなりに楽しかったが、蜷川の演出ということに限っていえば、これまでよりも刺激をうけることが少なかった。<中略>ただ、それほどの刺激はうけなかったが、日生劇場という大空間をとにもかくにも埋めることに成功したのは、やはり蜷川の力量だと、あらためて感心した事実はつけ加えておきたい。商業演劇畑、あるいは大劇場での蜷川の活躍を、そのことじたいでとやかくいう人たちがいるが、そういう点ではむしろ、私は蜷川に声援をおくるものの一人である。現在の日本の演劇状況では、作家とちがって、演出家はそれほど作品発表の場にめぐまれているわけではない。
 作家は商業雑誌に戯曲を掲載したり、理念的にも相容れない劇団や劇場に台本を提供してもとやかくいわれないのに、演出家が少しでもそういうことをすると云々されるのは、不公平この上もない。それだけ派手にみえるということがあるからだろうが、演出家の仕事は、活字のように後世にのこるということもなく、その場かぎりで消えていくものである。それに体力を必要とする仕事だから、力をふるえるときがあったら、どんな場所であろうと、全力をつくしてとりくんでみるのは結構なことではないか。問題はただただ舞台のできぐあいにかかっている。
 実際のところ、大劇場空間をそれなりに使いこなしうる演出家は、私のみるところ、蜷川幸雄と寺山修司ぐらいしかいないのである。大きな空間に、今のところそれほど演出意欲をそそられない私としては、大いに頑張ってもらいたいと思う。ただ蜷川幸雄には、貧しい内面より華やかな外面のほうがいいというような、相対的な評価で舞台そのものを支持させてしまうようなところがあって、残念だといえばいえる。華やかな外面が内面の豊かさというようなことと背反しないような舞台づくりの方法をさがして、もう少し苦しんでもいいのではないかというような気もするのである。
 しかしこれも、空間を攻撃的に埋めつくすことを演出術の武器として習得してしまい、またそのことによって、私にとっても世間にとっても、その存在理由を確固としてもっている演出家蜷川幸雄に対しては、今さらいうべきことではないかもしれないが、それでもなお、今回の『王女メディア』をみても、そういう蜷川の演出に一片の不満を感じるわけで、その点について書いてみようと思う」
 原稿用紙20枚にも及ぶこの劇評が掲載されたのは「新劇」という雑誌、1978年のことである(この一文は「演劇論 騙りの地平」(1980年、白水社刊)に所収されている)。この書き出しの後は、具体的な舞台の分析、彼が舞台上にずっと存在させ続けた「月」とは何なのか、これまでの演劇における月の役割に言及しながら、その疑問の原因を分析し追究していく。
 今になってみると、あまりの文明論的なマジメサに呆れるほどのものだが、この力の入ったマジメサは、他人の舞台についての私の文章としては唯一のものではなかろうかと思う。当時、蜷川も私もまだ40代、寺山修司も生存していた。この一文の最後は次のように書かれている。
 「どうしてこういうことがおこるのか。それはやはり冒頭にのべたように、蜷川演出が空間を埋めるという技術を基本的な演出の習い性としてしまったところにあると思えてならない。そういう性向が現場的に回転してゆくとき、作品の本質や、舞台に登場するものに対する論理的意味づけを素通りし、すべてを現場的実感性に収斂させてしまうためである。
 むろん、要はおもしろければよいのだし、そういうことは往々、論理的思考によるより現場的実感によって保証されることなのだが、しかし実感によって保証されたものでも、論理的な検証を拒むものではない。むしろ、現場的実感にささえられたおもしろさほど、論理的な検証の多様さに耐えうることが多いはずである。おそらく、蜷川の演出感覚からすれば、日生劇場の空間に立てかけられた城壁の上部は、空白としてしか感じられないものであった。<中略>
 蜷川演出は絶え間なく流される抒情的な音楽によっても特徴的だが、この月も、視覚の側からの空間の表情づけとして、彼の音楽の使い方と等価に存在したとみなしてよいと思う。視覚的単調さからくる心理的空腹感の現場的な代償物であったということでもある。それは量的な要請としての月であり、とりたてて月である必要のない月であったということでもある。だから、私には月がなかったほうが、たとえ単調な冷たさを免れえないとしても、むしろ城壁の垂直性が単なる形容的な状況設定としての装置ではなくなり、そこに住まい、生活するということが、大地の上にいることを意味するだけではなく、天空の下にいることをも意味する両義的な場所のような感じになり、『王女メディア』全体の出来上がりを世話物的な色彩から、もう少し硬質なものに救っただろうと思える。空白とは、想像力を刺激する余白、孤独な空間にもなりうるのだという視点の欠如、これが私の蜷川演出に対する変わらぬ不満ということになろう」
 私が生きた現代演劇の世界で、人格的にもっとも親しみを感じていたのは、寺山修司と蜷川幸雄の二人である。この二人は何よりも人間的に正直だったからである。他人に対する自分の感情の表出の仕方がフェアだった。また、日本の狭隘な演劇界を越えて、世界演劇の水準に参入しようと戦ったから、同志的な親愛感があった。ただ、蜷川幸雄の場合は寺山と比べると、その知的な面での苦闘の痕跡が、日本の演劇界に正確に伝えられなかったと思う。その原因の大半は、蜷川の仕事の周辺にいた演劇関係者、とりわけ学者や評論家やジャーナリストの人間的な志しの低さからくる発言に起因していたと感じる。それは今でも、彼の死によって、改めて語り出されているこれらの人々の言説に表れているだろう。
 私はそれらの人々、蜷川の名声に寄り添うことによって、演劇界を権力的に生き延びようとした人たちにたいして、不快な感情を隠すことをしなかったから、その反動として、その人たちの反撥を買ったことは承知している。そして、その人たちの言動が、あたかも私と蜷川が不和であるかのような認識を演劇人に与えたのである。
 蜷川は寺山や私のように、演劇論的な文章はそれほど書かなかった。その彼が珍しく朝日新聞に長文の文章を書いた。2003年の初頭のことである。自分が影響された3人の演劇人の本について率直に語ったのである。その中に私の著作も登場する。対談やインタビューで私について語ったのを目にすることはあったが、自らの文章での発言は、私の記憶するかぎり、この文章が唯一のものである。その要旨を原文から抜粋する。
 「一九六八年五月に刊行された『特権的肉体論』をそのなかに含む『腰巻お仙』(現代思潮社)を読み終えたとき、ぼくは俳優をやめようと決めた。<中略>唐十郎さんの、この一冊の本によって、ぼくは俳優をやめ、演出家になろうと決心した。ぼくは新しい劇団をつくった。演出の勉強をしたことのないぼくが、演出家になることを選択した。一冊の本の力はほんとうに恐ろしい。
 一九七一年にピーター・ブルックの『なにもない空間』(晶文選書)が出版された。退廃演劇、神聖演劇、野生演劇、直接演劇と四つの項目に分類して語られる演劇論は、彼の演出のように新鮮だった。ぼくらは既に彼の「真夏の夜の夢」の舞台をみていた。しかし、ぼくがもっとも大きな影響をうけた演劇に関する本は、一九七三年に出版された鈴木忠志さんの演劇論集『内角の和』(而立書房)だった。
 演劇の現場を生きている者だけが語ることのできる日本の演劇の根源的な問題を、『内角の和』は明晰な論理と鋭い分析で激しく語っていた。それはまるで白熱する炎だった。
 ぼくは唐十郎さんと鈴木忠志さんの本を、自分の演劇を照射するときの光源としてきた。ぼくは同時代の演劇人のすぐれた劇言語に触発され、多くのことを学んできた。今、二冊の本を手にとると、かすかに戦場の硝煙の匂いがするといったら、甘美に語りすぎているだろうか」
 この一文を目にした時、私は少し驚いた。蜷川は彼と同じように、私が心臓の手術をしたことを知って、手術の先輩として、私を励まさなければと思ったのではないかと想像したぐらいである。
 蜷川とは私が静岡県舞台芸術センターの芸術総監督に就任してからは、めったに会うことはなかったが、手術後しばらくしてから、一度だけさいたま芸術劇場で会ったことがある。彼は私に聞いた。スズキさんは持病はあるの。私は答えた。トクニ、ナイ。そのうちドット、クルカモヨ。彼は心筋梗塞の発作が起こった時の辛さを説明してくれた。この時の私は蜷川にウソを言ったという実感はない。劇場のロビーで気楽に話すような話題ではないと感じただけである。いずれは不思議な縁について、話す時はくるからと思ったのである。
 蜷川とは遠く離れていたが、私に対する優しさは届いていた。私が静岡県舞台芸術センターの総監督を退任した時には、これからは埼玉の劇場で演出作品の上演をしないかと誘いをうけた。この時すでに、彼はさいたま芸術劇場の芸術監督に就任していた。これは実現しなかったが、有り難いことではあった。今になってみると、東京女子医科大学の病室の天井を、同じように眺めていたこと、その時に何を考え、感じていたのかを共有できなかったことを悔やんでいる。
 蜷川の盛大な告別式の中継映像を見て、少し蜷川がカワイソウニ思えた。弔辞を読んだのがすべて、彼の演出した舞台に登場した俳優たちだけ。若い俳優は弔辞を読みながら泣いたりしている。コンナハズデハナイノニ、コレデハ、マルデ、葬式が芸能界のテレビ向け宣伝番組になってしまっているではないか。そして、蜷川は稽古の時に怒ると灰皿を投げるなどということが、美談としてアナウンサーから何度も語られる。死んだらホントウニ、遠くへ行ってしまったと、寂しく感じた。
 寺山修司も蜷川幸雄も、私より人生の過ごし方は器用だった。演劇以外の多様なジャンルに進出する時の、彼らのエネルギーの使い方を羨ましいと思ったことはある。そう考えれば、蜷川の葬式を見てカワイソウニと感じたのは、私の不器用な人生の狭さが、しからしめるところかもしれない。晩年の蜷川を思えば、これで本望だったのかもしれない。
 しばらく前に、東京で活躍する知人の女優から電話があった。電話をしては失礼かと思っていたという。私が元気でいるかを、聞かなければならない気持ちだったからだそうである。私は大声で、ゲンキダヨ! と言った。チョット、間を置いてから女優が言った。コマッタワネー。彼女は私が長生きすると、周囲の人たちが苦労すると思ったのか、私自身がこれから、困ることになると思ったのか。いずれにしろ、まだしばらくは死にそうもない。誰も困らないような手立てはしておかなくてはならないとは思うのである。