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鈴木忠志見たり・聴いたり

6月26日 若い広場

 「アワレなるものからアッパレなるものへ、いかに、誰がアッパレなのかを、もっと明確にしたいということが、鈴木忠志の狙いでもあるんじゃないでしょうかね。現代、アッパレなるものが少ないですよね。あいまいな文化が多いなかで、明確で、これはアッパレであると、皆が拍手したがる空間性を狙っているんじゃないかと思います。それは成功しているんじゃないですかね」
 最近、偶然に見つけ出されたNHKのドキュメンタリー番組、利賀村で活動を開始して5年目、1980年に放映の「若い広場」の中で語られた言葉である。アワレとはある状況や状態に、心が哀しく動かされる時だけではなく、しみじみと感心したりする心の言葉、対象を賛嘆する時にも使われてきた。ナニカシラ、対象に身を入れ、心を寄せる優しい人間の様を想い起こさせるが、アッパレとは、このアワレの心情をさらに強めた言葉、感嘆する対象に出会った時の感動の心から発せられるものだとされている。アワレよりは、対象に対するホガラカサを感じさせる語感がある。
 この言葉の主は、若い時の松岡正剛である。タバコをフカシながら、私の活動をどう見ているかを語っていた。今時、アワレとかアッパレとか、こんな言葉を日常で口にする人はなかなか居ない。使い方がむつかしい。ヘタに使われたら、聞かされる方が、シラケルのである。
 こういう種類の言葉をサリゲナク使って、聞く人の意表をつくだけではなく、対象そのものの在り方を分かったような気にさせるのが、松岡正剛の才能である。言葉のパフォーマンス上手とも言うべきこの才能には、20代の頃からたびたび感心させられてきた。
 しかし、こういう言葉が自分の仕事に対して実際に使われると、ウレシクないことはないが、やはりテレルのである。そしてむしろ、マコトニ、ウマイコトヲ、イウ、と松岡正剛その人に感心させられてしまう。ココガ、松岡正剛が文化教祖になっていったユエンではないかと思う。彼には1977年、私の初期の代表作「劇的なるものをめぐってⅡ」の台本や演出ノート、上演舞台への国内外の批評、私についての彼自身が書いた論稿などを収録した、精力的で珍しいスタイルの本を編集・出版してもらっている。
 このドキュメンタリーの中では、写真家篠山紀信もコメントを求められて語っている。「演劇をやる空間からも創りあげて、そこでやるっていうことは、一番の理想じゃないですかね、演劇をする人にとってはね。10年前に見たのも、それは早稲田小劇場の自分たちの小屋だったんだけれど、今の方がより完成度が高いし、ちょっと言葉がないほどヘトヘトって感じですね」
 松岡正剛は私が利賀村で活動しだした狙い、その社会的意義の文脈を踏まえて語ってくれているが、篠山紀信は私の舞台そのものの出来具合の方から、その印象を語ってくれている。今から36年前、私が初めて建築家磯崎新と協力して創った、合掌造りの劇場のオープニング公演の時である。この時の出し物は、「劇的なるものをめぐってⅡ」と「トロイアの女」。30年以上も経って、再びこの二人の言葉に触れ、大きな励ましを与えられたことを思い出した。そして、今でもやはり、この言葉には励まされる。
 このドキュメンタリー映像には、野外劇場も大きな合掌造りの劇場・新利賀山房もまだ存在していない。野外劇場が建設された場所には、小さな池があるだけ。のどかにも、私はその池で釣りなどをしている。同じく磯崎新の設計になる野外劇場と、その背後にある大きな池は、1982年から始まった世界演劇祭「利賀フェスティバル」のために建設・造成された。
 当然のことながら、私も磯崎新もインタビューされているが、前記の二人と殆ど同年齢の40歳前後、四人とも顔も語り方も若い。むろん映像には、当時の劇団員も殆ど登場する。しかし、現在でも活躍しているのは、私の舞台の主役を演じてきた蔦森皓祐と竹森陽一、加藤雅治、塩原充知、それに私の五人だけ、それ以外の人たちはこの世を去るか、劇団を辞めて音信不通の人が多い。映像の劇団紹介の画面には字幕で、現在の劇団員は38名とある。隔世の感がするのである。
 このドキュメンタリーの中で、驚いた場面がある。というより、知ってはいたのだが、現在では見ることのできない光景に改めて出会い、やはり深い感慨に誘われた。
 突然、カメラが階段をなめるように上がっていくと、男優たちの寝室になる。そこは合掌造りの二階、わずかな隙間を残し、畳み三枚ずつが敷かれて、その上に布団がズラリ。周囲には日本酒の一升瓶がゴロゴロ、開かれたままの週刊誌には若いアイドルらしき女の大きな写真、それを見下ろすように胡座をくんで酒を飲んでいる男。俳優の何人かはカメラマンなどにオカマイナク、布団に寝転んだまま。熟睡している俳優もいる。
 こんな映像がヨク撮れたものだと感心しながら、私はツブヤイタ。マルデ、タコベヤ、ミタイダナ。見終ってから若い女優たちに、タコベヤという言葉を知っているかと聞いてみたが、誰もその意味は知らなかった。
 蛸部屋とは労働者を監禁状態にして働かせていた飯場=宿舎のことである。この呼称は、タコツボに入った蛸のように、飯場に入るとなかなか抜け出せない現場のイメージからきたらしい。第二次世界大戦前の工事現場には多く存在していたという。私もその実際を見たわけではないが、日本の戦前の労働環境を描いた映画などで、宿舎の雑魚寝の光景には接していた。
 現在の劇団員の宿舎は個室、洗面所にはウォシュレットの便器もある。各部屋の防音もしっかりしている。100人は泊まれるゲストハウスもある。活動開始当時は一つだった劇場も今では六つ、場所自体の風景も一変している。映像で見るそれとはまったく違っているのである。まさしくコレモ隔世の感。40年という活動時間の蓄積である。
 この映像に接して、劇団はこの山の中で、日本社会の激しい変化に対応しつつ、よくここまで生き延びてこれたと思った。そして改めて私は、家庭の事情や自分の才能への疑問から退団していった人たち、志し半ばで死んでいった人たち、ともかく利賀村の活動に少しでも関わってくれた人たちのすべてに対して、アッパレだったと言いたい気持ちがした。もちろん、このような映像を残してくれた、当時のNHKの関係者にも感謝するのである。