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鈴木忠志見たり・聴いたり

12月1日 利賀村への道

 今年の後半は外国との縁で忙しかった。私の演劇生活の中でも久しぶりの年であった。SCOTサマー・シーズンが終了してすぐの、9月から10月にかけて、「エレクトラ」、「カチカチ山」、「トロイアの女」の公演のために、中国・ロシア・グルジア・ポーランドなどの国を廻った。それだけではなく4月には、北京郊外のリゾート地である古北水鎮、万里の長城の麓にある街の劇場に「鈴木演劇塾」を開設した。中国全土から40人ほどの演劇人を募集し、私の演劇観を話し、俳優訓練を実施。陳向宏さんという著名な経済人の応援で実現した。政治的には日本とギクシャクしているこの時期の中国に、日本人の私塾とも言うべき教室ができるとは、想像もつかなかったことである。
 この演劇塾は毎年開催することになっているが、陳さんは私がいつでも滞在できるように、野外劇場の脇に宿舎も建設してくれている。不思議と言えば不思議としか言いようのない出会いである。
 しかし、今までの演劇人生を振り返ってみると、新しく飛躍的な活動はいつも、予測もしない人との出会いがきっかけとなっている。早稲田小劇場や利賀村での活動も、芸術文化界とは縁のない人と出会い、その人たちの応援によって大きく展開した。親しい人たちから時々、あなたは人に恵まれていると言われるが、そうかもしれない。
 陳さんはこの古北水鎮の演劇塾が劇場と共に、世界的に注目されるようになることを願っている。私の力量でそれがどこまでできるか、ともかく経済人でありながら、演劇活動にまで財力を投入し、支援を惜しまない陳さんの厚意には、真剣に応えなければとは感じている。私の祖先が大変な迷惑をかけた国でのことである。
 11月には上海と広州の演劇祭にも招待され、「カチカチ山」と「リア王」の公演をした。上海の公演は、静安区人民政府が始めた演劇祭に招待されてのこと。開演前の舞台で区長たちとオープニングの儀式を行う。開演直前の同じ舞台で、儀礼的なことが行われ、それに立ち会うのは初めての経験だった。
 しかし今年の活動の中で末長く記憶に残るのは、ポーランドのブロツワフで開催された第七回シアター・オリンピックス、そのオープニングで「トロイアの女」を公演したことではないかと思う。この舞台のヨーロッパ公演は約30年ぶりである。
 シアター・オリンピックスはアメリカのロバート・ウィルソン、ギリシャのテオドロス・テルゾプロス、ロシアのユーリ・リュビーモフ、ドイツのハイナー・ミュラー、ブラジルのアントネス・フィーリョなど、世界的に活躍していた演劇人十数人と1993年に創った企画委員会である。
 なにがしかの組織的な実体があるわけではない。いろいろな国の政府や自治体、あるいは文化機関に呼びかけて、委員会主導の演劇祭やシンポジウムを開催してもらおうというものである。すでに物故した人もいるが、この20年の間には新しい委員も加わり存続してきた。今回のシアター・オリンピックスは、ポーランドから新しく委員として加わった、演出家ヤロスロウ・フレットが中心になり、ブロツワフ市の支援で実現したものである。
 「トロイアの女」の舞台は今の時代に相応しい内容だと好評だった。エウリピデスのこの作品は2000年以上も前に書かれたものだが、戦争と難民に悩み続ける現在のヨーロッパの人たちにはナマナマシク、身近に感じられる作品だったようである。ギリシャ軍に滅ぼされたトロイアの国は消滅する。男はことごとく殺され、生き残った女たちが奴隷としてギリシャに連れていかれるこの物語を、私は日本の第二次世界大戦の敗戦の悲惨な状況に重ねあわせて演出した。それが未だ、ヨーロッパの現在の状況への刺激的なメッセージ性を持てていたことは嬉しかった。時間と空間の違いを超えて、戦争によって不幸な境遇に陥る人間の悲惨さは普遍的である。
 このシアター・オリンピックスが創設された当時も、アメリカとソ連の冷戦が終結したのもつかの間、多くの人たちの平和への期待に反して、各地で民族紛争が多発した時期である。特に東欧の多民族国家は悲惨な紛争状態になった。民族浄化などという言葉が、人殺しや婦女暴行の正当化のために横行したのである。
 そのような民族的憎悪による紛争が世界に拡散しないように、演劇人として力になれることがあるのではないか、そんな願いがあって、心ある世界の演劇人がギリシャのデルフォイに集まり、シアター・オリンピックスという委員会を立ち上げたのである。その初心を改めて、ヨーロッパの地で感じられたのは感激だった。今回のシアター・オリンピックスの芸術監督を務めてくれたフレットに感謝である。
 それにしても、舞台の芸術的な質が高くなければ、上記のような実感が我が身に訪れることもない。その点では、劇団員の能力に支えられてのことである。よくここまで、劇団は芸術水準を保持できてきたと思う。
 実際のところ、如何に集団を維持するのか、この課題にかかずらわり、悪戦苦闘していた時期は長い。むろん今だってその解決を手にして、安定した心持ちでいるわけではないが、この課題に直面していた初期の頃に比べれば、幾分かは気楽になったとは言える。
 私が直面した課題には、二つの側面があった。一つは集団の経済的な基盤の確立、もう一つは集団の芸術水準の保持である。この二つの展望がないと、どんな御託を並べようと、利賀村での活動は消滅する。この危機感、というか恐怖に襲われていた時期はケッコウ長かった。
 集団という言葉を使うと、抽象的な印象を感じる人も多いだろうが、実感は違う。劇団は同志としての芸術集団である。毎日毎日、数時間も顔を突き合わせて行動するから、強い個人としての顔を持った人間、その人たちの具体的な数になる。それほどの人数であるわけではないが、その個人の経済基盤と芸術的な能力の水準を、どのレベルに設定し維持していけるのか、その展望とそれににじり寄っていく方法を手にしないと、利賀村という特殊な環境を選んだ活動の意味は、一種の思いつきによるタワゴトに終わる。そして、演劇という表現形式によって自分以外の他者に、ジカニ結び付くことは二度とできなくなる。集団固有の共同性は霧散し、その存在の社会的な意義は消えるのである。
 世界は日本だけではない、日本は東京だけではない、この利賀村で世界に出会う。1982年、当時の日本社会の東京一極集中の傾向に、大きくタンカをきってみせた私の言葉である。このスローガンとも言える言葉に促された行為が、劇団員を巻き込んだ無責任なそれに転化して、後悔に責められることになるのではないか。そのために注ぎ込んだ心身のエネルギーが、津波のように反転してきて、我が身に襲いかかってくるのではないか。これが集団のリーダーを望んで引き受けた当時の恐怖感の実態だった。
 利賀村での活動を開始したのは1976年、私が36歳の時である。東京のある新聞は「鈴木忠志・突然の発狂」と書いた。今思えば確かに発狂だったかもしれない。しかし、この発狂は演劇を通して正気にたどり着くための、私にとっての唯一の道だったと、懐かしく思えるようにはなったのである。大袈裟とも言えるこのスローガンの言葉は、40年を経た今でも、私の心に生きつづけている。むしろ、ますます新鮮になっているかもしれない。
 昭和9年、今から80年以上も前に、谷崎潤一郎は「東京をおもう」という一文で次のような発言をしている。
 「諸君のうちにはまだ東京を見たことのない青年男女が定めし少くないことであろう。しかし諸君は、小説家やジャーナリストの筆先に迷って徒らに帝都の華美に憧れてはならない。われわれの国の固有の伝統と文明とは、東京よりも却って諸君の郷土において発見される。東京にあるものは根底の浅い外来の文化か、たかだか三百年来の江戸趣味の残滓に過ぎない。東京は西洋人に見せるための玄関であって、我が帝国を今日あらしめた偉大な力は、諸君の郷土に存するのだ。私は何故地方の人が一にも二にも東京を慕い、偏えに帝都の風を学ばんとするのか、その理由を解するに苦しむ。例えば大阪のような大都会の青年男女でさえ東京というと何か非常にいい所のように思い、何事も東京の方が上だと考えて、自分たちの言語や習慣を恥じるような傾きがあるのは、彼等をそういう風に卑下させたのは、誰の罪か。近頃の為政家はしばしば農村の荒廃を憂え、地方の振興を口にするが、現今の如く帝都の外観を壮大にし、諸般の設備を首府に集中して、田舎を衰徴させた一半の責任は、彼等政治家にあるのではないか。私は地方の父兄たちが子弟を東京へ留学させる利害についても、多大の疑問を持っている。なるほど東京には立派な教授や学校があり、いろいろの教育機関が完備しているであろう。が、前途有為の青年を駆って第二世第三世の東京人たらしめ、小利口で猪口才で影の薄いオッチョコチョイたらしめることは如何であろうか。返す返すも東京は消費者の都、享楽主義者の都であって、覇気に富む男子の志を伸ばす土地柄でない」
 私には現在の日本について「我が帝国を今日あらしめた偉大な力」などと言う自負はとても持てないが、ここで言われている日本という国、なかんずく東京への認識はほとんど同じである。そして改めて、第二次世界大戦の敗戦によって、国土の大半が焦土と化したにもかかわらず、日本は何も変わっていなかったのだということに驚くのである。谷崎潤一郎が当時の中央公論にこの一文を書いたのは、私が生まれる以前のことなのである。