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鈴木忠志見たり・聴いたり

8月12日 亡霊と宇宙人

 今年の「SCOTサマー・シーズン」には、ひとつだけ新作を発表することにした。去年、一昨年に続くチンドン屋の登場する舞台である。
 他人だと思っていた人間たちが、自分の身体にくっついてしまう。そして、いつの間にか自分の身体の中にまで入ってしまい、自分の意志とは関係なく言葉まで喋り出す。都会の保険会社に勤めていた青年、独りぼっちで部屋に閉じこもる人間に起こった現象である。
 劇中人物の一人は言う。「誰よりも独りぼっちを望んだ君が、いちばん独りぼっちではなかった。私たちは君に呼ばれたのだ」と。そして更に、「もし君が自分の言葉を奪われたと感じたとしたなら、それは君がそうありたいと思ったからだ」と断言するのである。
 この「北国の春」という戯曲は、「からたち日記由来」と同時期、40年ほど前に書かれた鹿沢信夫の作品である。「からたち日記由来」と違って、チンドン屋の語る物語りはなく、演奏は後景にしりぞき、チンドン屋夫婦と息子との関係がドラマとして前面に展開するから、主人公の青年の置かれた精神的身体的状況を透かして浮き上がってくる社会的なメッセージは強い。
 一個の人格として時間的空間的に自立して存在しているという社会的な実感を持ち得ない人間、言い換えれば、青年のアイデンティティー・クライシスの有り様を描いているということになろうか。むろん、上演にあたっては、現在の私の視点から若干の戯曲の改訂はしている。
 もうずいぶんと昔のことだが、知り合いの婦人に言われたことがある。近ごろ息子が口をきかなくなった。いつも自分の部屋に閉じこもって、コンピューターに向かい合っている。食事の時でも会話は少なく、何を尋ねてもハッキリした返答がないから、宇宙人と向かい合っているかのように感じるのだそうである。
 宇宙人とは大袈裟な気もして、私は内心でホホエンダが、私も近ごろの若者と話す時にこれに近いことを感じることはある。まさしく「北国の春」症候群に出会っているのだと思う。
 この息子はとっくに自分の母親を殺しているのである。母親が気づかないだけではなかろうか。もしこの事実を母親が正確に理解したとしたら、母親にとってはどのような心の人生が待ち受けているのであろうか。現代社会に引き付けて考えれば、ここに核家族高齢化社会の大問題があるような気もする。
 より良い人生への確かな約束がなされているわけでもない社会、インターネットやスマートフォンから発せられる現在形の情報の奔流に呑み込まれている現代の若者、しかしそれこそが、人生を充実して生きていると感じるようになってしまった若者にとっては、眼前の母親とは過去から派生してくる人生の桎梏であるかもしれない。というより母親こそ過去という亡霊、宇宙人と亡霊との距離はもう埋まらない。鹿沢信夫の戯曲を深読みすれば、こんなことにでもなろうかと演出してみた。
 千昌夫が歌い大ヒットした「北国の春」、鹿沢信夫はこの昭和の歌謡曲が、たとえ日本人がすべて宇宙人になってしまったとしても、亡霊としての過去を懐かしく想い浮かべる時の契機になってくれることを願っていたのかもしれない。「北国の春」の一番の歌詞を記しておく。
 白樺、青空、南風。こぶし咲くあの丘、北国のああ北国の春、季節が都会ではわからないだろうと、届いたおふくろの、小さな包み、あの故郷へ、帰ろかな、帰ろかな。