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鈴木忠志見たり・聴いたり

2月13日 思い出の人たち

 ここしばらくの間、私の知人である演劇人の死が伝えられる。知人といっても、昔の知り合いである。最近はよく、その人たちのことが思い出される。報道からのインタビューがあったりしたためもあろうか。特に浅利慶太、加藤剛、市原悦子のことは鮮明である。
 浅利慶太は俳優ではないから、一緒に仕事をしたわけではない。いろんな機会に出会い、会話を交わした時の言葉を思い出すのである。彼はいつも、演劇そのもののことを話すのではなく、演劇を成り立たせる時々の環境について、激しく話題にするのだった。新国立劇場は、コウヤッテ、ツブスベキダ、といった類の気炎である。私は殆どの場合、笑ってやり過ごしたが、芸術文化振興基金の設立をめぐっては、新聞紙上で明確に対立した。むろん彼は否定派、私は擁護派であった。しかし、今になってみると、彼の反対意見には傾聴すべき部分も多い。そのことについては、以前のブログ(「助成制度のこと」)で触れている。
 加藤剛とは恥ずかしながら俳優として共演している。木下順二に「赤い陣羽織」という戯曲がある。女好きの赤い陣羽織を羽織った代官が、村のおやじの女房に言い寄るのだが、オッチョコチョイの子分がその手引きをする。その代官が加藤剛、子分が私だった。
 学生時代のことだが、この公演は東京ではなく、伊豆諸島の一つ、新島で上演した。新島以外ではこの舞台の公演はなかった。いま思えばマコトニ不思議、この公演の目的はただ、新島にミサイルの試射場が建設されることに反対する島民の応援のためのものだったのである。
 偶然に所属した大学の劇団が、学生運動の活動の拠点の一つ、共産党の細胞もあった。部室の棚には、共産党の機関紙「赤旗」が、劇団の党員のために毎朝とどけられていた。昭和の中期、まさに時代である。私が大学2年の時で、加藤剛は3年生であった。オドロイタコトニ、ミサイル試射場設置に反対の活動をする島民のための活動資金を集めようと、池袋駅構内で乗降客にカンパを呼びかけたのである。
 当時の私は自閉症的文学青年、政治オンチ、ミサイル試射場設置反対を訴える信念などあるはずもなく、訴えかけの声は小さい。先輩に叱られメガホンを持たせられた。携帯マイクなどない頃である。タダ、タダ、ハズカシカッタ。その点、加藤剛はマジメな優等生、性格も温厚、こういう劇団の活動の意義も、それなりに納得して行動していたと思う。
 ソレニシテモ、それなりの俳優として初めて観衆にまみえた場所が、東京から船で何時間もかかる離島の新島、それもボスのために女の手引きをするチャチな悪役で、その後テレビで颯爽と大岡越前を演じつづけた加藤剛の子分である。このために私は未だ、山奥の過疎村で、あらぬモウソウやタクラミに、身を託さざるを得ないのか、私の演劇活動の出発点は、マコトニ寂しく不運だった、などと運命の不思議を想う懐かしい思い出である。
 市原悦子との出会いは偶然もイイトコ。私が演劇活動を始めだした頃、彼女は新劇界の中枢劇団ともいうべき、演出家千田是也が率いる俳優座のスターだった。加藤剛も同じ劇団所属である。彼女の演技はエネルギーに満ちあふれていて、若い頃の浅利慶太も高く評価していた。彼の演出する舞台にもいくつか出演しているはずである。当時の私の劇団の主演女優、白石加代子も大のファンで、いつか舞台で共演したいと常日頃に口にしていた。
 その市原悦子は、1971年、劇団内における芸術理念をめぐる指導部の対立が原因で劇団を退団した。そして1974年、私が岩波ホール演劇シリーズの芸術監督になった、最初の演出作品、エウリピデス原作の「トロイアの女」に出演した。能出身の観世寿夫、新劇出身の市原悦子、小劇場出身の白石加代子、三枚看板の競演である。舞台稽古を勘定に入れると、5週間ほども稽古をしたのを思い出す。
 私は当時、稽古のときには必ず剣道の袴を履いた。あるとき私は楽屋で、腰からズボンを真っすぐに床におろし、両足を抜いて袴に着替えた。当然のことながら、ズボンは丸く小さく床に横たわる。そして私はズボンをそのままに、急いで稽古場に行ったのである。しばらくすると、楽屋の方から驚きの声と、ケタタマシイ笑い声が聞こえてくる。何事かと思い戻ると、市原悦子がズボンを指さしながら、私に言ったのである。
 チュウさんが、コンナコト、スルナンテ、ビックリ! そしてまた大声で笑う。こんなことで驚かれたり、笑われたことがないので、私の方もビックリ。私への誤解、ナニカ、私が端正な人間であるかのような、先入観を持っていたらしい。その笑い顔のカワイイコト、私も一緒に笑った。これが一番の市原悦子との思い出である。
 それ以来、脱いだズボンは畳んで椅子に置くことにしている。