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鈴木忠志見たり・聴いたり

2月24日 懐かしの公衆電話

 ツイに見つかっちゃいました、お巡りさんに。ソレデ、なんて言われた? ナニヲシテイルンデスカ。ソレデ、なんて答えた。スイマセン、スグデマス。もう少し居たかったんですけどね。
 あの辺りのボックスには、ビラがいっぱいあるから疑われたのかもしれないな。
 ありましたよ、コンバン、オヒマ! マッテルワ! とか、電話番号がゴチックで大きく書いたのが。私が新宿周辺の公衆電話のボックスに、バラマイテイルとでも思ったのかもしれません。
 ソウダナ、怪しまれたのかも。受話器を手にもって、喋っていたんですけどね。やさしいお巡りさんでよかったよ、早く家に帰って寝なさいなんて。
 暮れの12月、深夜の明治通り、タクシーはハシャイデ走っている。バブル全盛期、宴会の季節である。電話ボックスの中でセリフの稽古をする人間など、怪しまれても仕方がない。しかし、この若い劇団員は私に力説する。あすこがイチバン集中できるんです、誰にも迷惑をかけるわけでもないし、深夜なら独占しやすい。ソノウエ、稽古場代も必要ありませんから。私はハゲマス以外にない。ガンバレ、ガンバレ。
 私も夜遅く、有楽町の劇場での稽古が終わり、皇居前の濠のそばで、セリフの発声練習をしたことがある。一人の若い警官が近づいてきた。丸の内署のお巡りさんらしい。その人が言う。静かにしてください。皇居の中の皇宮警察の人に、私が大声を出していると思われますからね。昭和は、ナニカト世相のうるさい時代だったが、のどかな時代でもあった。今なら、テロリストの一味かもと、いくばくかは疑われても仕方がない行為である。
 高山線の八尾駅から利賀村までの道程は約30キロ、道は曲がりくねった坂道の連続である。車に乗っても1時間強はかかった。私が利賀村に来たのは40年以上も前、今と違って道は舗装をしていない。土道でおまけに狭い。冬になれば雪道。山の斜面から落ちてくる雪を避けながら車は走る。
 夜間、この道を一人で帰る心細さといったらなかった。周囲は真っ暗、車のライトに照らされる前方だけが頼りの山道なのである。
 この道の途中に、一つだけ公衆電話のボックスがあった。車が故障したり、道に迷ったりした人のため、要するに緊急の事態の連絡用である。それを見るたびに、わずかながらも安心感と励ましを与えられるのだが、30キロの間にタッタの一つである。モシ、この場所から遠く離れて<ナニカアッタラ>と、かえって不安にさせるところもあった。
 この電話ボックスに誰かが入っていたのを目にしたことはないが、いつも孤独でヒトリボッチの風情だったから、横を通り過ぎるたびに、ガンバレ、ガンバレ、と内心で声援を送っていた。それが平成になって、いつの間にか消え去ってしまったのである。
 もはや時代は携帯電話からスマホへ素早く変化、東京でも、公衆電話を探すのに苦労する時代。東京はどうでもよいとして、私にとってはこの山の電話ボックスが、何の断りもなく消えられたのは不本意だった。ナンダカ、他人と繋がれる唯一の回路を断たれたような、淋しい気分であった。一度も使ったことがないのにである。
 もう少しで平成も終わろうとしている。あなたにとって、平成とはどんな時代でしたかと聞かれたら、ナント、コタエルノカ。山道にひとり佇んでいた公衆電話が突然にいなくなって、孤独を感じた時代とでも。
 私は昭和14年生まれ、今年の6月で80歳になるから、私の人生は昭和50年、平成30年である。ということは、昭和が私の人生の基礎がためをしてくれ、平成がその基礎の上に建物を建ててくれたことになろうか。その基礎の一つは、まぎれもなく公衆電話である。携帯電話がなかった頃の私には、公衆電話はどこでも、いつでも誰かと繋がれるという、励ましを与えてくれるものであった。
 作詞家の阿久悠は平成11年に書いた「昭和恋歌」に触れながら、次のように言う。
 「この歌は次のようなフレーズをくり返しつづける。あああ、あああ、一日一日遠くなる、わたしの時代が遠くなる、そして、あの子も、あのひとも……昭和が夢の時代であったわけではない。悲惨であった。しかし、少なくとも、人間の歴史に景色がよりそっていた」
 昭和には景色があったとは、上手いことをと感心するが、私の昭和時代は、少しも遠くはならない。土中に打ち込まれた基礎は強い。なかなか撤去できないのである。最近ではむしろ、平成の方が遠く薄くなるのではないかという気がしている。
 雑踏の中で、キャバレーやクラブへの通路としても活躍していた公衆電話、殆ど歩く人のいない山道に、雨の日も雪の日も、ヒトリボッチで静かに佇んでいた電話ボックス、このふたつの風景は、まさに昭和の記憶として、今も私には鮮明である。