BLOG

鈴木忠志見たり・聴いたり

3月29日 集団と文化について

 演劇の舞台が創り出されるためには、まず戯曲の存在があって、演出家や俳優の稽古が始まると一般的には考えられている。そしてその稽古は、戯曲の読み合わせから始まるとされている。劇作家や演出家が俳優たちに読んで聞かせるのである。あるいは、配役された俳優たちによって読み合わされることもある。まず最初に、戯曲作家の作品の思想や言葉の解釈が共有される必要があると考えられているからである。
 その手続きが終わると、演出家の指示に従いながら、俳優たちが立ち稽古と言われる動きをつけた言葉のやりとりをしていく。そして、舞台作品と呼ばれるものが観客の前に登場するのである。
 私の劇団SCOTはこの稽古の手続きをとらない場合が多い。一人の戯曲作家の言語作品=戯曲を舞台化するわけではないからである。新作として昨年に上演した「津軽海峡冬景色」を例にとれば、その違いは歴然である。この舞台は、チェーホフ、ゴーリキー、尾﨑紅葉、阿久悠が歌謡曲のために作詞した言葉などの断片により構成されている。
 むろん、それらの言葉は私が選んだもの。その言葉は個々の俳優に手渡され、一人一人の俳優が動きを付けた独自の稽古をして、しかるべき時に私や他の俳優の前に披瀝され、全員に共有されるものとなる。発声や動きは、私が考えだした訓練方法によって育った俳優たちだから、とんでもない演技が出現することはない。その点は、能や歌舞伎あるいは宝塚などと同じで、持続する集団の強みである。プロデューサーによって集められた一回性の寄せ集め集団とは演技の質が違うのである。
 私の劇団の場合は、初期の稽古段階での俳優の演技は、いずれは全体を構成する言葉や動きの断片として羅列されるだけである。その断片としての演技の場面を、どういう順序で時間の流れの中に織り込んでいくか、俳優が独自に考えてきた演技に、演出的観点から注文をし、修正してもらいながら、統一ある全体を創り出していく。これが演出家である私の仕事になる。言い方を変えれば、稽古とは言葉と動きが合体した一つの上演台本を創り出すための過程ということになる。通常の演劇の成り立ちのように、戯曲は稽古の前提ではなく、稽古の終了の時点で戯曲=台本が完成するのである。
 文化活動に限らず、政治や経済の領域でも、集団は目的を達成するための独自の行動システムを必ず所有している。同じ製品を生産する会社でも、それぞれの行動システムは異なるし、それを企業文化が違うなどという言葉で表現したりする。これは一つの集団が時間をかけて蓄積し、継承している行動の型の違いを表している。そういう点では、私の劇団も訓練を含めた稽古過程が、他の演劇集団のそれとは際立って異なるという意味で、独特の行動型としての文化を創り出していると言えるかもしれない。
 ずいぶん昔だが、動物学者の河合雅雄は、文化というものを面白くわかりやすい視点から解説していた。一匹の猿がイモを水で洗うことを考えつく。その行動を見た他の猿が同じ行動を始め、やがて猿の大部分がイモを洗うようになる。生まれてきた子供も母猿のマネをする。このように集団を構成するメンバーによって分有され、習慣的行動様式として集団に定着し継承されたものが文化だと。
 個人の思いつきや発明が、その人が属する集団に共有され、それが更に一般の人達にも広がっていき、一つの行動の型として学習され定着する。社会生活上で習慣になっている多くの行動も、この経過を経て浸透したものである。もちろん、文化として広く伝播した社会生活上の行動様式も、生活上の必要性や環境に適応するために、強制されて誕生したと見なされるものもある。演劇の世界でこの例が顕著に見られるのは、女形の身体行動である。
 長い間、日本人の生活文化として定着してきたものに、和服という着物がある。この身幅の狭い衣服の故に、日本人の身体行動はかなり不自由になったと見なすことはできるが、その反面、下半身の露出を極度に抑制する日本人独特の優雅な歩行文化を発明できたとする意見もある。内股を密着させ、爪先を内輪にする歩行である。
 この内輪歩きの創始者は江戸時代の歌舞伎役者、中村富十郎だとされている。富十郎の演技から歩行の芸能の伝統は確立されたのみならず、その所作が一般市民にも模倣され、社会的な行動様式として広く定着し継承された。個人が発明した身体行動が、日本社会を特徴づける集団文化にまでなったのである。演劇の力を感じさせる面白い逸話だが、こういう個人の所作や行動の型が、他の個体や集団にまで影響し、社会的な行動様式として定着させる力は、現在では映像の世界に移りつつある。演劇人としては残念なことだが仕方がない。
 かつては社会集団を健全に形成するために中軸的な文化様式として存在した演劇も、今は社会の辺境に位置する存在になった。しかしそれは、逆の視点をも提供している。ネット社会が撒き散らす抗しがたい情報の奔流は、個人を個性化するのではなく孤性化するから、集団性としての文化を新しく創出する力を衰弱させている。演劇はこの社会の傾向に巻き込まれないで、人間の孤性化に歯止めをかけうる集団的文化活動として存在できるのである。
 SCOTが利賀村を拠点に、演劇を通じて蓄積してきた劇団の行動の型は、日本人が創り出した優れた文化的特質のひとつだと、世界の演劇人に影響を与えているし、これからも更にその影響力を増大させたいと願っている。