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鈴木忠志見たり・聴いたり

9月26日 裂帛の気迫

 シアター・オリンピックスが終わった。劇団員はそれぞれの劇場の片付け、照明や音響の機材、所作台の撤去に忙しい。8月23日から9月23日までの5週間、64公演の長丁場を無事に乗り切った。
 居住人口500人弱の山奥の僻村に、2万人弱の観客を動員できた。観客だけではなく、外国からの参加団体が、この利賀村の施設のみならず、運営の仕方を含めた芸術環境を楽しんでもらえたようでホッとしている。
 この村に来て44年、80歳になるまで、ガンバッテキタ、何よりの贈り物のような気がしているが、それもこれも、多くの人たちの助力があってのことである。財政面での支援は当然ながら、精神面での強い励ましもあって感謝している。
 演劇評論家の渡辺保が「演出家・鈴木忠志・その思想と作品」という本を書いて、岩波書店から出版してくれたことは、特にアリガタカッタ。演劇生活60年の歴史の過程を通じて、私の実践してきたこと、言いたかったことを、具体的な作品に即して語ってくれている。ただそれだけではなく、演劇という文化制度の真っ只中を生き抜いてきた一人の人間=渡辺保の人生への思いが、ヒシヒシ、と伝わって感動させられる。それも私の作品を契機にして伝わってくる著作なのである。こういう真の友人ともいうべき観客を持てたこと以上に、私の職業にとっての幸せはない。
 この本のあとがきは、「斉藤郁子のこと」となっている。そこにはこの本が書かれる発端になった斉藤との会話が記されている。その中で彼は、本当ならばこの本は「斉藤郁子に捧ぐ」と献辞されるべきであると述べている。
 斉藤郁子は7年前にこの世を去っているが、長年にわたって私の仕事を支えてくれた同志である。シアター・オリンピックスも、彼女がいなかったら実現できなかったことは、今回この利賀村に集結した殆どの演劇人が承知していることである。開幕公演の「トロイアの女」の終演後、シアター・オリンピックス国際委員長テオドロス・テルゾプロスは、この催しを斉藤郁子に捧げると、舞台上から観客に向かって語った。今回のシアター・オリンピックス盛況の一番の功労者は、斉藤郁子の魂だったと言っても良いのではないかと、私は思う。
 しかし、シアター・オリンピックスの活況を目の当たりにしながら、辛い気持ちが押し寄せることもあった。劇団SCOT創立のもう一人の同志、蔦森皓祐が亡くなったからである。76歳、早稲田大学の学生の時から、私の演劇活動に参加し、舞台俳優として一貫して活躍し続けてくれた。私の初期の作品群では、白石加代子と共に主役を演じつづけた。現在でも最も人気の高い私の舞台作品「世界の果てからこんにちは」が30年前にこの世に出現した時の主役は蔦森であった。
 その蔦森が「サド侯爵夫人」の稽古中に舞台上で死んだのである。心臓が悪くペースメーカーを身につけていた。近年は体力が少しずつ減少していたが、シアター・オリンピックス迄は、ナントカ、ガンバリタイ、と浮腫んだ身体に気合を入れながら稽古に励んでいた。
 私はこの三島由紀夫の三幕作品の二幕だけを上演したのだが、作家の指定以外の人物を登場させた。サド侯爵とも三島由起夫とも見なすことのできる一人の男を舞台奥に座らせ、何やら書いているようにしたのである。この男は時々「サド侯爵夫人」の短いト書きを声を出して読む以外には黙って座っているだけである。それが蔦森の初演の時からの役であった。渡辺保はこの蔦森の演技について先述の本のなかで次のように書いている。
 「男は<中略>ずっと黙って机に向かっているが、最後にルネが「アルフォンスは私だったのです」といって立ち上がった後、たった一言「幕」という言葉を発して幕がおりる。蔦森皓祐のこの「幕」という、裂帛の気迫のこもったピリオドが芝居を終わらせる瞬間は、蔦森の演技によって実に印象的であった」
 シアター・オリンピックス開幕の迫ったある日、さあ稽古を始めようとした時、それまで机に向かっていた蔦森の姿が見えない。探して見ると机の横の床に大の字になり死んでいたのである。舞台上での突然の大往生であった。一瞬驚き、次には、しばらくの悲しさに辛くなることもあったが、今は俳優として、幸せな人生を生きたのではないかと祝福する気持ちもないではない。
 ついに劇団の創立者は私一人になってしまった寂しさはあるが、斉藤や蔦森の後輩たちが二人の志と情熱を引き継ぎ、私をしっかりと支えてくれている。そのために、マダマダ、頑張れそうだから安心してくれと、二人には言いたい。私も裂帛の気迫をもち続けて、この利賀村での人生を幕にしたいと願っている。また会う日を楽しみにしながら見守っていて欲しい。
 明日は第9回シアター・オリンピックスの関係者による打ち上げである。