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鈴木忠志見たり・聴いたり

3月22日 昼逃げの勧め、のこと

 昨年の一月には、一週間ほどイタリアのミラノに滞在した。イタリアの国立美術館から演劇人、それも舞台美術への功績があったとして表彰、ツイデノコトなのか、美術館の名誉会員にも推挙され、美術館関係者や附属学校の先生にスピーチをした。利賀村の劇場の写真を見せながら、なぜ都会ではなく利賀村かを力説した。
 帰国した直後に、イタリアで新型コロナの感染が各地で始まったとの報道に触れる。ミラノは急激に感染が拡大している都市の一つだと知り驚いたが、帰国後の私の生活はコロナを軸に展開することになる。
 こう言うと大袈裟だが、ナンノコトハナイ、利賀村から殆ど離れることなく、すべての活動を実行したというに過ぎない。予定された外国公演はすべてキャンセル、東京は危険地域、他人への接触は避けなければならないことになったのだから、当然の成行であった。一年以上も国外へ出なかったのは、35歳を過ぎてから初めてのことである。
 昨年はコロナ禍での文化活動のあり方は、イカニ! とテレビや報道機関から発言を求められることが多かった。それも本格的な、文化芸術活動の現在から将来にかけての意見をとのことで、少しマジメニ考えて疲れた。
 NHK富山による劇団のドキュメンタリー番組、日本経済新聞と国際交流基金の共同企画による海外向けインタビュー、毎日新聞朝刊のオピニオン欄などには、それなりの意見らしいことを述べた。共同通信社からは連載評論「新型コロナと文明」の執筆者の一人として原稿を依頼され、教育者や文化関係者に私の経験を踏まえた提言らしきものをした。
 もちろんSCOTの公演は、大都市での文化活動の自粛に抗するように実施した。12月には雪の降る中での公演、観客の人たちには新鮮な体験だったらしい。それだけではなく、私の演出作品がどういう手続きを経て成立してくるのか、身体訓練と舞台を組み合わせた映像をYou Tubeで世界に発信した。SCOTが、ユーチューブ? 日本以外の多くの人たちから驚きと、映像の出来具合に対する反響が寄せられ、この試みは多くの外国人に待たれていたことだと得心する。これもコロナの故だが、私の考えや活動を身近に感じることを望んでいる人たちが、世界中に多いことを知って励まされた。戦いはコレカラダ! と改めて感じる。
 映像になった私の意見は、インターネットで触れることができるが、新聞だけに掲載されたものは、一日一回のものだから目につきにくい。特に共同通信社に依頼された原稿は地方紙に配信される。地元富山の新聞は当然だが、長崎、鹿児島、大分、福岡、広島、鳥取、島根、秋田、新潟、山梨、静岡、神奈川の地方各紙には取りあげられたようだが、東京の新聞には掲載されなかった。
 利賀村という過疎地で活動する私としては、地方の多くの方々の目に触れることになって、私が過疎地にこだわったその思いを理解していただけるとしたら嬉しい限りなのだが、私の原稿の論旨は日本の国土のバランスがあまりにも常軌を逸した様相を呈しているのではないか、大都会の人たちがこの国土の不健全なあり方を認識していないのではないか、今こそコロナ禍によって引き起こされつつある国民精神の荒廃と衰退を深く認識し、それを是正するための行動を都会の人たちこそが起こすべきだというものであったから、東京の人たちにも読んでもらいたいという気持ちはあった。
 いささか遅くなったが、私の考えを記した「昼逃げの勧め」を採録しておこうと思う。
 
 20代後半から30代の中頃まで、私は東京の新宿区戸塚町に小さな劇場を建てて活動していた。経済的な負担と管理上の制約に嫌気がさし、10年ほどたって劇団の拠点を富山県東砺波郡利賀村に移した。芸術上の質を高めることと国際的な広場を創るために、環境を変える必要を感じたからである。廃屋だった合掌造りの民家二棟を村から借り受け、作品の発表も可能な稽古場と劇団員の宿舎とに改造した。必要な時には、いつ何時でも集団が使用できる空間、そしてまた、どのようにでも改造できる空間、その贅沢を手にしたかったからだ。1976年のことである。
 現在では行政の協力のもとに、六つの劇場<屋内四、野外二>と劇団の関係者150人ほどの人たちが長期に滞在可能な施設を整備している。その故もあって、一昨年は一カ月の間に、世界16の国の30劇団が舞台を発表できたし、昨年も新型コロナウイルスの災いに妨げられることなく、劇団の公演活動を持続することができた。
 留学生として日本の大学を卒業した後、俳優を志望して劇団に入ってきたアメリカ人がいた。利賀村での活動を始めたばかりのある日、このアメリカ人が稽古に来ない。稽古の終了まで、劇団員の誰も気が付かなかったのだが、どこを探しても本人の姿は見あたらない。宿舎の荷物も消え去っていて、残っていたのは端正に畳んだ布団だけだった。
 このアメリカ人が数年して突然に現れた。再び劇団に入り活動したいと言うのである。その表情はいたってホガラカ、私は彼に言った。夜逃げしたのではなかったのか。彼はニッコリと笑い、あれは夜逃げではなく「昼逃げ」です、と言ったのである。初めて聞く日本語であった。要するに、後ろめたい気持ちでコッソリ逃げたのではなく、将来の展望に基づいた目的のある行動だったと言いたかったらしい。確かにその後の彼は、自信に満ちた態度で精力的に活躍し、利賀村での私の仕事をよく助けてくれた。
 それ以来、私はこの昼逃げという言葉が気に入り、肯定的に使うようになった。逃亡を意味する夜逃げとは違い、何かしらの成果を携えて、いつの日か帰還するという日本語になったのである。
 利賀村は海抜600メートル、東西20キロ南北52キロもある山間の村で、当時の人口は1500人ほどの典型的な過疎地であった。離村者が多く、現在の人口は500人弱、平成の市町村大合併により南砺市利賀村になっている。一方、私が来村してから現在までに、東京の人口は230万人も増えているのである。石川県と富山県の住民が、そっくり消え去るほどの規模である。
 45年前に、この利賀村へ劇団の拠点を移すと東京の記者会見で発表した時、新聞記者たちには、東京から夜逃げをするのかと言われた。私のスローガンは妄想のように受け取られたのを思い出す。そのスローガンは、世界は日本だけではない、日本は東京だけではない、この利賀村で世界に出会う、であった。
 現在、日本の国土の50%以上は過疎地と言われる。そこには全人口の10%弱の人しか住んでいないのである。そして過疎地は依然として都会地への人口流出に悩まされている。第二次世界大戦以前には、日本の貧しい人たちは国策に呼応し、南米や満州や北海道への開拓民として故郷を離れた。この利賀村のある五箇山地域からも、多くの人たちが各地へ離村していった。離村する人たちが送りだされた時に歌った唄がある。人多くして土地狭き、我が日本の悩みをば、我らが腕もて拓かなん、いざ赴かん新天地、我らの闘魂、火と燃えり。同じ人口移動でも様相はまったく違うのである。
 日本の大都会の狭い場所には、経済的成長と享楽的な人生を求めた人たちがひしめいている。過密である。そして今や新型コロナに悩まされ、あらゆる面での過密を避けるように政府から促されている。その結果、多くの人たちが精神と経済の貧しさに喘ぎだしている。しかし一方では、大都会とは対照的に人口流出に悩みつづけた過疎地には、耕作放棄地や廃校になった建物や、殆ど使用されていない公共ホールが数多く残され、自殺者の急増と共に寂しく荒廃した光景が現出している。政治の地方活性化の掛け声は空しく響き続けてきたのである。
 東京にうごめく政治家や官僚の劣化は今に始まったことではないが、せめて教育や精神文化に携わる人たちは、テレワークによる新しい生活様式などという言葉に惑わされずに、大都会がもたらす精神的、経済的な貧しさから昼逃げすべきであると思う。新しい生き方への価値観を創り出すために、新開拓民となって過疎地へ船出したらどうであろうか。
 1934年<昭和9年>、谷崎潤一郎は「東京をおもう」という一文で、日本の状態を憂えていた。
 「近頃の為政家はしばしば農村の荒廃を憂え、地方の振興を口にするが、現今の如く帝都の外観を壮大にし、諸般の設備を首府に集中して、田舎を衰微させた一半の責任は、彼等政治家にあるのではないか。私は地方の父兄たちが子弟を東京へ留学させる利害についても、多大の疑問を持っている。なるほど東京には立派な教授や学校があり、いろいろの教育機関が完備しているであろう。が、前途有為の青年を駆って第二世第三世の東京人たらしめ、小利口で猪口才で影の薄いオッチョコチョイたらしめることは如何であろうか。返す返すも東京は消費者の都、享楽主義者の都であって、覇気に富む男子の志を伸ばす土地柄でない」
 驚くべきことだが、80年以上も前の谷崎潤一郎のこの言葉は、今でもそのままに生きていると感じる。