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April,29,2017

民族主義的な痴漢

 男は年をとると、粗大ゴミか痴漢にしかなれないのかね。久しぶりの同窓会。中学の頃、小生意気な女として、男の悪口を言うことで評判だった女性が私に言う。相変わらずだと思いながら私は応える。偉大な芸術家として名を馳せた人は、年をとらなくても変態が多いよ。彼女は理解不能という顔をする。
 粗大ゴミや痴漢、このように見なされる男は否定的な価値の人間だが、しかし、これらの男たちの中には、それを自慢する人もいる。粗大ゴミや痴漢にも、立派な存在理由はあると、その存在の価値を声高に主張する人がいるのである。しかも、オドロクベキコトニ、女性の中にはその価値を理解し信じ、自ら身を寄せてくれる人もいると言う作家がいる。三島由紀夫などはその一人である。女性には迷惑なことでもあろうが、粗大ゴミや痴漢は、そうした女性の存在によって社会的に救われるらしい。
 三島由紀夫の「サド侯爵夫人」は、サド侯爵という煮ても焼いても食えない粗大ゴミが、如何に一人の女性を精神的な高みに誘い、強い人間として生きさせたかを描いている。その女性たるや、変態で身勝手な男、それを三島由紀夫としてもよいが、彼の創り出す理屈の中に夢のように浮かんでくる。男の粗大ゴミ性は女性によって、その価値が立派に保証されている。
 谷崎潤一郎の作品に登場する男の主人公たちは殆ど痴漢である。そしてこの痴漢も、その存在理由を女性の心情に依存して主張される。あろうことか、痴漢に随伴して人生の辛酸をなめる女性は、男にとって聖母マリアのようなアリガタイ存在なのである。「或る調書の一節」では、痴漢が如何なる女性によって精神の安定を得ることができるか、三島由紀夫と同じような理屈が執拗に語られる。女性は強い、粗大ゴミも痴漢も、女性の強さによってこそ、その価値を証しすることができるとされている。
 三島も谷崎も世間一般からすれば、まさしく変態なのだが、三島は男の変態としての価値は所属する国家や民族の違いを超えて、ユニヴァーサルな理解を得られると主張する。谷崎は変態には色濃く民族性が反映すると説得しようとする。
 いずれにしろ現在の女性たちから見れば、旧い日本の男のタワゴト、彼らの屁理屈が世の中を悪くしているといった種類のものかもしれない。確かに「お国と五平」に見られるように、谷崎作品に登場する痴漢の堂々たる言い分には、苦笑しながらも感心せざるをえないところはあるのである。
「手ざはりの快感に於いても、(少くともわれわれ日本人に取つては、)東洋の女が西洋に優つてゐると云ひたい。西洋の婦人の肉体は、色つやと云ひ、釣合ひと云ひ、遠く眺める時は甚だ魅惑的であるけれども、近く寄ると、肌理が粗く、うぶ毛がぼうぼうと生えてゐたりして、案外お座が覚めることがある。それに、見たところでは四股がスツキリしてゐるから、いかにも日本人の喜ぶ堅太りのやうに思へるのだが、実際に手足を摑んでみると、肉附きが非常に柔かで、ぶくぶくしてゐて、手答へがなく、きゆつと引き締まつた、充実した感じが来ない。/つまり男の側から云ふと、西洋の婦人は抱擁するよりも、より多く見るに適したものであり、東洋の婦人はその反対であると云へる。」<恋愛及び色情>
 欧米人にそれほど多く接しているとは思えない谷崎が、こう言い切る根拠を私には理解できないのだが、痴漢にも民族主義的な妄想というものがあり、それが谷崎潤一郎をユニークな日本的変態=芸術家にしていると了解はするのである。
2016年、「谷崎潤一郎全集 第9巻」月報

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