SELECTED ESSAYS

過去の発言より

新しい演劇人

 ギリシャの演出家、テオドロス・テルゾプロスは優れた演出家というだけではなく、たいへん面白い発想を持っている組織者でもある。
 彼はヨーロッパ文化発祥の聖地ともいうべきデルフォイで、古典劇を中心とした世界演劇祭を主催しつづけてきた。彼はヨーロッパ文化の中核的存在ともいうべき演劇が、現代社会の中での存在価値を弱めていることに関して、その原因をこう指摘する。
 現代演劇の衰弱を新しい演劇や理念の出現がないことに理由があるという人がいるが、それは違っている。演劇人という独特な性格を持った人間のイメージが見えなくなってしまったからだ。
 彼に言わせれば、演劇人とは劇作家でも俳優でも演出家でもない。演劇人とはそういう分業化した職能に従事している人たちの個人の別称ではなく、演劇という集団作業の全体にかかわり、かつ対応できる総合的な能力を備えた人だというのである。
 たしかに演劇人というものは劇作家や俳優や演出家をプラスしてできるものではない。そういう人たちも本来は演劇というものが好きだから演劇活動に参加したのであって、その集団作業の全体の中でたまたま劇作や演技や演出を担当したのにすぎないだろう。
 芸術上の観点からすれば、集団作業としての演劇にかかわっているすべての人は、演劇人として存在しているのだというのはうなずける。実際のところ、俳優をしながら演出をしたり、演出をしながら制作活動や衣装や装置のプランを考えたりという人は多いのである。
 テオドロス・テルゾプロスはこの演劇人というものの性格とイメージを、もう一度とらえかえしてみる必要があるというのである。それができれば、演劇人というものが、複雑な組織機構を形成した現代社会の内で、いかに重宝で大切な人たちであるかということが明らかになるはずだというのである。
 演劇はギリシャにその発生をみて以来、二千年にもわたってその活動を持続してきた。この活動によって人類は人間へのものの見方、理解の仕方を鍛え、かつ人間の身体とともにある生身のエネルギーの素晴らしさを目の当たりにしてきた。ただそのまま使用すれば、自他を傷つけ滅ぼす暴力になりがちな生身のエネルギーをよく飼いならし、洗練し、人間関係を豊かにするものにしてきた。
 しかし、近年の電子情報社会の到来によって、この生身のエネルギーの価値を軽視する傾向が浸透しているのも事実なのである。この時代の傾向は、生身のエネルギーへの信頼を前提に、集団作業として成立する演劇の存在理由を軽視することにもつながりつつある。
 こういうことをも踏まえてテオドロス・テルゾプロスは、演劇の新しい可能性を追究しようと世界各国の演劇人の幾人かに共同事業を呼びかけた。それがシアター・オリンピックスという催しの発端である。
 最初のシアター・オリンピックスは1995年にギリシャで、その次は1998年に日本で開催することになった。私もアメリカのロバート・ウィルソン、ドイツのハイナー・ミュラー、ロシアのユーリー・リュビーモフなどとともに、11人で構成される国際委員の一人だが、日本での開催は静岡県になった。
 日本は現在、世界でもっとも進んだ文明の地である。文明国とは生身のエネルギーを非動物性エネルギー、電気や石油や原子力のエネルギーに代替させ、コミュニケーションや管理のシステムを発達させる特質がある。
 日本の演劇界はこの文明化の極致とでもいうべき東京に依存し存在しているのだが、その結果、演劇ひいては文化の本質とでもいうべき生身のエネルギーの力を見失って、人間そのものの魅力を小さいものにしてしまっている。
 こういう日本の演劇の偏りを具体的に検証できる地方で、シアター・オリンピックスが開催されることは時宜をえていると喜んでいる。
 
1993年、東京新聞12月24日夕刊より