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鈴木忠志見たり・聴いたり

4月26日 スズキ演劇

 これはニューでもないし、オールドでもない、これはスズキだ。自動車のことではない。演劇の話である。
 一時期の日本人は新しいということに憧れていたのか、それが価値だと思っていたのか、何にでも<新>という字を当てた。建物なら新館とか新国立劇場とかイメージは描きやすいが、抽象的な内容をもつものにまでこの字を使われると、名付けた当初はそれなりにリアリティーがあっても、時間が経つと何がなんだか分からないものに転化してしまう。私の関わっている演劇の世界で言えば、新国劇、新派、新劇などである。この場合の<新>はすべて、日本の伝統芸能である歌舞伎や能を意識して使われた。これらの<新>の登場で、昔は能に対して<新>だった歌舞伎も<旧劇>に変身させられた。日本人でさえ、新と旧の違い、さらには新どうしの違いを説明するのはなかなか難しいのに、これを英語に直訳され、ニューだのオールドだのと言われると訳が分からなくなる。
 スズキさんの演劇は、能や歌舞伎の影響下にあるそうですが、日本の伝統演劇なんですか、それとも新劇に対してニューなんですか、これが質問である。日本の演劇史を少し齧ったことのある外国人であろう。そこで私が、伝統に対しても新劇に対してもニューだと言ったら、ああ、新新劇なんですねと言う。新新劇という言葉はない、その場合は日本では反新劇といいます。でも伝統芸能に対しては反ではないんですよね。反です。だってさっきはニューだと言いましたよ。ニューは反なんです。じゃあ、新劇と同じではないですか、西洋演劇に学んだ新劇は歌舞伎に反だったんでしょう。私はそれにも反なんです。では、率直に聞きます、スズキさんの演劇は、どこが<新>なのですか。まるで精神病院の問答のようだ。実態を置き去りに、言葉だけが舞っている。そこで冒頭の発言になる。
 私の演劇は先行の日本演劇のニューでもオールドでもない、あなたが日本の演劇だと思うから間違う。だってスズキさんは日本人なんでしょう。もちろんです。だったら日本の演劇ではないですか。いや、違います。私のは日本の演劇ではなく、日本人スズキの演劇なんです。皆が笑う。じゃあ、突然変異に近いものなんですか。そう、そうなんです。たしかに日本には、能、歌舞伎、宝塚、新劇、スズキが発生したんですが、スズキは突然変異、日本の演劇とは言いがたい。日本人より外国人の方がよく理解しますしね。アメリカ人というのも200年前の突然変異でしょう! 漫画的かつヒステリー的な答えだ。ドイツの精神医学者クレッチュマーの著書「ヒステリーの心理」の言い方を借りれば、自分の立たされた困難な状況を熟慮的に解決できない場合に、論理的な手続きを踏まないで、状況を一挙に変化させようとする身振り、情動的発作症状に近かったかもしれない。
 日本の伝統芸能を理論的に再検討し、その独自性を自らの実践によって明らかにしようとした演出家に武智鉄二がいる。私が影響をうけた先人の一人だが、彼の伝統畑での仕事は、武智歌舞伎と称された。この呼称は本人が言い出したものではなく、最初は彼の仕事に悪意をもつ劇界の人たちが、正統なものではないという中傷の意を込めて使用したらしい。しかしこの言葉はやがて、優れた演劇運動の呼称として広く知られていく。そこで歌舞伎の大元締め、松竹の創立者大谷竹次郎が怒ることになる。「俺でさえ、大谷歌舞伎と言ったことはないのに、武智歌舞伎とは何という僭越な」
 私の舞台をスズキ歌舞伎とかスズキ新劇と呼ぶのは気が引ける。実態にも合わない。仕方がないからスズキ演劇。この呼称も上記のような珍問答を繰り返しながら、外国ではずいぶんと定着したが、日本では僭越至極とやはり、誰かに叱られるのであろうか。