新・帰ってきた日本

SCOT ブログ

January,30,2012

1月30日 液状化身体

 液状化という言葉をよく聞く。新鮮な言葉だったが、聞き初めは少し違和感があった。地面が液状になるなどとは大袈裟だと思えたからである。しかし、地面から水が噴き出したり陥没したりしているテレビ映像や写真を見せられているうちに、いつの間にか自分も使うようになっていた。それも地震に関係して使ったわけではない。演劇の稽古をしていて使うようになったのだから、言葉の力は恐ろしいと言うべきか、偉大と言うべきか。若い俳優の一人に、お前の下半身は液状化している、と咄嗟に言ったのである。我ながら驚いた。
 液状化とは地震の際に、砂の地盤が液状になる現象らしい。地面がグニャグニャ、ドロドロ、サラサラと柔らかになること、地面が固体から液体状の性質を示すように変化するらしい。これでは家屋が倒壊したり、沈み込んだりするのは当たり前である。そういえば新潟地震の折だったか、全体の形はそのままに、傾いたり横倒しになった建物の映像を見た記憶がある。建物の構造は堅固、重量計算もしっかりとなされていたようだが、その建物の基盤が安定した堅固さを備えていなかった。
 こういうことがあるとしたら、自分の家を建てるのにもまず、どんな地面かの検査から始めなければならないことになる。どうやって検査し、その検査の費用はどれぐらいになるのか、貧乏根性というか不安神経症というか、素人の哀しさ、皆目手掛かりもつかめずに茫然とする。現在住んでいる家は、建てる時にそんな検査はしていない。東京の高層ビルはそういう検査をしっかりとやってあるのか、東京は4年以内に直下型の地震が起こる可能性が高いというが大丈夫か、想像が昂進するばかり。そして結論は残念ながら、こうなったらまあ、地震が起こってみる以外には分からない。情けない感じもあるが、地面に液状化現象があるなどということが身近になったのはつい先頃、突然だから仕方があるまい、と我が身に言い聞かせている。
 最近の日本の若い俳優の演技を見るとよく、足と脚がしっかりと地に着いていないと感じる。身体に落ち着きがなく安定感が足りない。顔の表情と身振り手振りの演技が過剰、俳優の身体全体の存在感、人間性の魅力が演技として現前してこない。感情的表情が演技だとばかりに、無闇と顔を大写しにするテレビや映画の影響も大きい。日本では映像のための演技と舞台演技の違いが曖昧にされてきた。そこで、俳優たちに観劇後の感想を求められると、私は上半身が不安定、身体の存在感が足りないと指摘することが多い。するとこんな問答になることもある。
 それは感じました。なぜだか分かっているのかい。よく分からない。腰から下の下半身が絶えず動いている、身体が安定していない。だから芯が無いように見える。芯て何ですか。芯とは物や肉体の心、重心のこと。重心て何ですか、重い心と書くけど。そんなもの演技で感じたことはありません、重い心なんて。ソレハチガウ、重心の心は芯と同じでね、身体の部分部分の動きを安定的に全体に組み込む中心。片足で立つだろう、そうすると揺れる、揺れないようにするには、身体の部分部分の重さのバランスを取り均衡を計るだろう、その中心になるところが重心だよ、それは腰の辺りにある。分かったような分からないような顔をしている。ナンダカ、タヨリナイ。今や文化芸術系はダメカ、という気にさせられる。
 腰はそんなに動いていなかったと思うなあー。イヤ、足と脚が地面にしっかりと密着していなかったから、重心も揺れて静止しなかったはずだよ、だから上半身がグラグラ、台詞もグニャグニャして明晰に聞こえない。何事も腰から下の半身が大切、上半身が安定するにも、大きな声を出すにも。そんなに足と脚が不安定でしたか。不安定と言うより、意識化されていないということかな。どうしたらいいですか。身体の中を見るんだよ。どうして重心が不安定になるのか。どうしたら重心が安定するのか。え! 重心て見えるのですか。見えるように感じるということだよ。そこまでの修行をするんだよ、一流の舞台芸術家やスポーツ選手は。スポーツと一緒にされたことが、やや不満らしい。実に面倒臭い。
 コンピューター時代の若者は、何でも視覚的に了解しないと納まらない傾向がある。身体の中も映像や数値で分かろうとする。人間の身体への直感力や想像力を養う気はあまりない。そこで私は言う。親や恋人に言われたことはないのかい。自分の心をよく見たら、と。自分の心を感じたら、なんて言わないだろう?
 体験を共有していないと、こういう調子で延々と言葉だけの話が続くことになる。特に身体の体験を共有する言葉は難しい。下手な鉄砲も数を撃てば当たる式にならざるをえない。しかし地震のお蔭で私は一言で、自分が感じていることを相手に納得させる術を手にしたと思ったのだが。お前の下半身は液状化現象を起こしている、ナントカシロ!
 これでも真意が通じないとしたら、今のところ諦める以外にはないかもしれない。その時は若い俳優たちに言った方が良いかも。俳優は辞めて被災地で働いてみたら。

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January,22,2012

1月22日 興味津々

 スピーチの時に、冗談を入れるのが、どうしてそんなに上手なのか。静岡県舞台芸術センターの芸術公園、竹林の間の小径を歩きながら、私は当時のロシアの文化大臣シュヴィトコイに尋ねた。10年ほど前のことである。スターリン政権下の子供の頃、腹が減ってひもじくて仕方がない。仲間の子供たちと水を飲みながら、いつも冗談を言いあっていた。ひもじさを忘れようと、そうして遊んでいたんだよ。シュヴィトコイは演劇界出身である。
 この感じは分る。私も第二次世界大戦で日本が敗れた時は田舎の小学校一年生。学校が終わると、サテ、ナニヲスルカ! 仲の良い友達と野原で暗くなるまで、遊ぶ以外にはない。ただフザケテ遊ぶのである。この時に、ヘンナ、オモシロイヤツが仲間に加わっている時ほど、アリガタイことはなかった。笑わせ、娯しませてくれるから、多少なりともひもじさを忘れて、時間が過ぎるのである。
 昨日、北京から利賀へ帰る。中国国立中央戯劇学院で、日本とアメリカの男優、韓国の女優、3人をアシスタントに連れ、25人の演技部の俳優に訓練をしてきた。今年の10月には北京で「リア王」を演出する。そのためのオーディションを兼ねての訓練である。5月にはその全員が利賀村に3週間滞在、実際の稽古が始まる。中国人の俳優と共にアシスタントで同行した3人の俳優が加わるから、舞台は英語、日本語、韓国語、中国語の四ヶ国語が飛び交うものになる。
 このオーディションを兼ねた訓練を始める前に、学院の院長や主任教授など多くの先生に、キビシクヤッテクレ!! と言われる。あまりに多くの人が同じことを言うので、不思議に思い尋ねてみた。答えは同じ。彼らは一人っ子政策になって生まれたから、両親に甘やかされて育っている。心が弱いというのである。
 確かに、訓練を始めて確認する。彼らの振る舞いは育ちが良く、適応力もあって素直、良家の子女であることは一目瞭然。もちろん、ほとんどが美男美女。そのフンイキは、私がかつて教えたことのあるニューヨークのジュリアード音楽院やモスクワ芸術座の俳優たちと比較しても、それほどの違いはない。1万人に50人という凄まじい競争をくぐり抜けて選抜されたとはいえ、ハイソサエティ温室栽培エリートの印象は拭えない。だから、身体から発するエネルギーは弱い。すこし野生味が足りない。それでも、同世代の日本の俳優と比べたらダンチ。日本と違い、基礎的な身体の教養、その教育が身体に生きているから上達は早い。世界の演劇界も、コミュニケーション・システムのデジタル化とグローバル経済の荒波に揉まれたが、その渦中で日本の現代演劇は、商業主義の浸透と、未来を見据えた文化政策の欠落のために、貴重な演劇財産も押し流されてしまったかの感がある。
 私の訓練方法によって演技の仕方を教えながら、一昔前の日本、否、私の同世代の世界の演劇人のことを思い出す。演劇人になろうなんて人たちは、どこの国でも孤独な貧乏人だった。あるいは、大金持ちや社会的地位の高い親の息子や娘で、父親の生き方や家庭の在り方に反抗して家族と縁が切れて孤立、貧乏を自ら選んだ人かのどちらかである。金があって喰うに困らず、親の理解と暖かい応援があって演劇活動ができるなどとは、かつては思いも及ばなかった。私も恥ずかしながら、演劇に身をまかせた途端に親に勘当され、30歳まではいたって貧乏、夜10時から朝5時まではアルバイトをして喰いつないでいた頃がある。
 中国で教えながら、若い演劇人たちを取り巻くこの現象は、演劇の社会的役割と地位が向上したためなのか、低下したためなのか、中国演劇界の今後はどうなるのか。その力量にはキョウミ、シンシンのところがある。
 
 

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January,06,2012

1月6日 崖っぷち

 アメリカの作家レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説に、If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive. という言葉がある。角川映画のキャッチコピーにまで使われ、当時の日本人には少なからずウケタ。その時の日本語では、男はタフでなければ生きて行けない、優しくなれなければ生きている資格がない、と少しニュアンスが変えられていた。いずれにしろ、現在の世の中で、こんな言葉をそのまま口に出すのは、やや気恥ずかしい感じのものだが、それなりの名文句、日本人には心地よい響きを与えたようである。こんなに<優しさ>に思い入れする国民もいないからである。
 善意と優しさ、これを感じさえすれば、どんな嘘をつかれても許容範囲、日本人は他人をあからさまに非難しないといった趣がある。悪意からしたことではない、と自分に言いきかせて、トガッタ心を穏やかに収める。しかし実際は、優しさや善意といった代物こそが問題、事実を隠蔽したり嘘をつかれて騙されるのも、このお蔭であることも多い。また、この二つの言葉を売り物にしている人間ほど、自己満足の権化、始末に負えないものもないのである。
 除雪作業の合間にテレビを見る。どのテレビ局も、暮れから正月にかけて、福島原発の過去、現在、未来について、政治家、官僚、学者、評論家などによる討論、福島原発事故とは何か、を検証する報道番組を流していた。
 それらの番組では、東京電力と政府が事実を隠蔽したり、虚偽の見解を発表したり、また法律どおりに物事を処理しなかったということが、今回の事故の際立った特徴であることを多くの出席者が認めていた。また、それを知りながら事実を究明せず、東京電力や政府見解をそのままに報道した、マスコミの批判精神の欠如と誤報に対する無責任な態度、これからはニュースを信じてはいけないなどと発言する人もいた。
 ではなぜ、東京電力や政府は、そのような態度を取ったのか、それは国民の心に不安を、日常生活に混乱をもたらさないための配慮だったと言う人がいるから驚く。東京電力や政府の言動は、国民への善意と優しさによる配慮だったというのである。
 あらためてテレビの画面でこういう発言に接すると、やはり奇妙な感覚を味わう。この人たちの発言内容からすれば、この事故は人災、多くの人命や財産を無にさせる殺人や詐欺にも等しい行為が行われていたのである。過去に遡れば、贈収賄、公金横領、過失致死に近いことだってあったかもしれない。責任者を特定し、すぐに逮捕すべきだという議論があってしかるべきなのに、そこまでは誰も踏み込まない。これは刑事事件だという人は誰もいないのである。コノクニハ、ダメダ! とただ議論は盛り上がって賑やか、これぞ日本独特のノドカナ光景としか言いようがない。国民は検察や検察審査会のインチキを目の当たりにしてきたばかりである。今こそ検察の使命と力量を公正に示せ、という人が一人ぐらいいてもよさそうなのにである。
 実際のところ、昨年は政治家や官僚、検察官や警察官の事実隠蔽や虚偽行為を、ウンザリするほど見せつけられてきた。その上に報道の無責任までも。むろん私も、個人はいざ知らず、この国の未来に夢がないことは承知している。せめてただ、国破れても個人あり、という気概を持って生きる若い人たちが、多く輩出するかどうかだけが希望だと思っている。
 国家の指導的な地位にある政治家や財界人が私利私欲のために、あるいは公正を背負うべき検察や警察が組織を守るために、国民を裏切ったり、騙すような言動が常態として繰り返されている国家である。いまさら、日本の行く末を憂う空しさは身にしみている。
 チャンドラーの言葉をモジッテ言えば、男は嘘をつかなければ生きて行けない、他人に優しかったら生きている資格がない、政界や財界にはこの手の指導者たちが充ち溢れている。この言葉そのままにグローバリゼーションの渦中を得意げに生きているように見えるのである。
 日本国民はこういう指導者たちに先導され、険しい国際関係の中を、この先もズルズルと歩きつづけるのであろうか。それとも、これまでになかったこの国の独自の未来を、新しく発見・創造することができるのだろうか。勇気と洞察力、そして責任感のあるリーダーを、日本国民は出現させることができるのかどうか、今年の日本は崖っぷちの一年になるような予感がする。

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