新・帰ってきた日本

SCOT ブログ

July,28,2012

7月28日 謙遜談義

 秀れた舞台芸術家や素晴らしいスポーツ選手を見る楽しみは、集中すると人間はこんなに自由になれるのかという印象である。むろん、その自由を生きるために、どれほどの精神力を養い、肉体の不自由と戦う時間を必要としたか、そのことをも感知させられ感心する。舞台の演技でもスポーツの競技でも、ともかく一回性として、身体がその場を生きる楽しさの極限を感じさせてくれるのが醍醐味である。人生すべて、かくありたいと思うのだが、そんなことがたやすく実現するはずもない。だからこそ、そうした凝縮した人生の瞬間を、人々はスポーツや舞台芸術に垣間見ようとするのであろう。
 フランスの哲学者アランによれば、人間は謙遜な気持ちになった時が、最も美しい時間を生きているのだそうである。謙遜、今や懐かしい人間的な響きを漂わせている言葉だが、彼は謙遜とは飾らず率直な力であるとし、それを筋肉の状態で定義しているから面白い。謙遜とは筋肉の楽々とした、ほぐれた状態だと言うのである。
 「剣術の先生は、彼を信ぜぬ弟子どもに、迅速に突くための真の方法は、身を引き締めることではなく、それと反対に、身を楽にすることであると教える。ヴァイオリンの教師は、もし音を自由に出し、これを伸ばし、拡げようと望むなら、手は決して握りしめてはならぬと教えるが、彼の弟子はそれを信用せぬ。私もこれと同様に、いずれの知識であれ学修する生徒に、注意と欲望の様子で身を固くし、また自分の喉を締め付けてはならぬと教える。<中略>あの咽喉を引きしめ、声を高くし、やがて何か意見を発表しようとすると大声に叫ぶあの先生は、私の言を信ぜぬ事であろう」
 哲学者に剣術や演奏時の筋肉の在り方にまで言及され、それを精神状態の比喩にまで使われるとは、やや恐れ入るが、言わんとしていることは良く分かる。謙遜とは心身のこわばりを脱した状態だと言うのである。しかしこれを、日常生活での緊張の無い状態を、自由自在な心身の状態だと感じ、それに馴染んだ振る舞いに謙遜が生きられているなどと誤解しないことである。アランが謙遜を説明するために使用している武術や演奏の技術は、厳しく持続的な鍛錬を前提として成り立つもの。弛んだ低エネルギーの心身の行動とは似ても似つかないものである。
 自由で自在な行為の楽しさ、それを楽しむためには、精神も身体もまず目的に向かって、意識的に身が引き締められなければならないのは当然のことである。その過程で、緊張によって心身のコントロールが、不能に陥らないことを指摘しているのである。断片化した心への集中、硬直化した身体に存在感を付与しようとする無意識的傾向、こういう緊張状態の解除、あるいはそれから離脱した状態を、アランは謙遜と見なしている。まさしくある種の文学的な表現であるが、この言葉の使い方は、日本人には若干の異和があるかもしれない。
 謙遜という言葉で思い出すのが、ロシアの劇作家チェーホフ。謙遜について、彼ならではの醒めた考察を手帳に書きつけている。この人にはいつも、知的エスプリとはかくなるものか、という快さを味わわせてもらう。
 「ある謙遜な男のために祝賀の催しがあった。一同はいい機会とばかり、てんでに自己誇示やお互い同士の褒めっくらで時を忘れた。食事も終わろうという頃になってやっと気がついてみると、当のご本尊を招ぶのを忘れていた」
 ロシア人が酒盛りで盛り上がった場に、何度も同席した経験からしても、この光景は説得力がある。同席者は間断なく入れ替わり立ち代わり立ち上がって演説し、場はさらに盛り上がる。ご本尊がいなくても、これだけ楽しめれば結構といった具合。
 では、果たして日本ではどうか。ロシアには一応、招ぶべき謙遜な男がいたらしい。日本にはもう、そんな男もいなくなってしまったかもしれない。 

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July,22,2012

7月22日 切れ端

 自分の舞台のためだけではなく、演出家コンクールに参加する人達のために岩舞台の客席、一緒に暮らしている動物たちのために遊び場を作る。経済的にすませたいから、倉庫に在った古い材木や土木工事の足場にしたパネルをかき集める。久しぶりの大工仕事、ノコギリを引くのも、カナヅチをふるうのも力のいる仕事だと、つくづくと感じる。魚を採る網を手にしてアナグマ=穴熊を追いかけ、捕まえた拍子に転倒し、脚を痛めたから尚更そう感じるのかもしれない。若い劇団員が腕をあげていて、手際よく動いてくれるので助かる。それにしても毎日毎日、材木の切れ端が多く出てくるのには驚く。
 劇団員と一緒に、切れ端は保存して置いた方が良いか、捨ててしまうのが良いのか、しばしば戸惑うことがある。切れ端の中には大きなベニヤ板もあったりする。また使う機会もあるかもしれないと、ちょっと考え込む。すぐ決断ができず、ドウスルカ? などと劇団員に聞くことがあるのも年を経った故か、貧乏性による優柔不断のせいか。時として劇団員がキッパリと言ってくれる。倉庫も手狭になったし、処分しますか! オオー、ショブン。つい最近、ウンザリするほどに聞かされ馴染ませられた言葉である。ヨシ、ショブンシヨウ、それで気持ちはフッキレルからこの言葉は便利。他人がはっきりと勧めてくれた事だから、勿体ないという気持ちにも、言い訳が立ったと思うのかもしれない。 
 処分とは物事の処理や扱いの決まりをつけることだが、我々はこの言葉を、要らなくなった物を捨てたり、廃棄や焼却することに使っている。行政処分などという言葉に表されている、権力の発動や、財産の処分をするというような大袈裟なこととは次元が違う。もう少し日常的なつつましい話し。民主党を分裂にまで追い込んだ処分とは違って、材木は党議拘束違反をした訳ではない。材木を除名したり、材木としての使用を何ヵ月か停止しても意味をなさない。我々が勝手に切り刻んだもの。
 民主党の消費税増税に反対した議員への処分は、組織の規則に違反した行為への処罰だという。しかし、選挙民との公約に違反したり、勝手な発言ばかりしている議員の集合体である人達が今更、他人の意志を拘束したり、ルール違反の行為だと称して、罰則としての処分をするとは思わなかった。だいたい、民主党がひとかどの組織であり、規則があるだなんて今更ご冗談を、という気もするのである。
 まだまだ一緒にもたれ合いながら、お互いにもっともっと勝手なことをしたり、言い争ったりして闘おうと合意すれば、私などは前向きな権力闘争のエネルギーを感じて、むしろ政治とはそういうものだと納得するのである。処分というなら、民主党員全体を一挙に、ショブンしなければおかしいのである。今までの民主党の政治を見れば、処分した方もされた方も、どちらも国民に偉そうなことを言えた義理ではないではないか。全員で公の約束違反をしたのだ。まあ材木の切れ端を処分するように、気楽にはいかないだろうが、自分たち全員が、廃棄や焼却のショブン対象になりつつある存在ではないか、という程度の疑問はもってもらいたいものである。
 だから民主党は、自民党や公明党と協議して、国会議員全員が早く身を処分する方策でも考えるべきではないか。自民党も公明党も一度は、国民に処分されかかった政党である。何を今更、国難の時代を乗り切る三党合意だ。公党の約束だ。笑わせてはいけない。そもそも最高裁判所に、あなたたちは皆、憲法に抵触する違法的な存在の仕方をしているのだと言われている人達ではないのか。
 マチガイがあったら、我が身の処分ぐらい、自らの決断で潔くやってもらいたいと思うのである。

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July,08,2012

7月8日 新しい目論見

 劇団員が三々五々と帰ってくる。懐かしい。劇団員に会うことを、懐かしいと感じるのは久しぶり。先月の初め、中国中央戯劇学院の稽古が終わり、劇団員も少しずつ日にちをずらしながら、三週間の休暇をとることにした。7月10日に全員が揃う。翌日からは稽古が始まる。
 今年の夏はせわしない。例年と違って、変則的なスケジュールになった。いつもなら8月の中旬から始まるSCOTサマー・シーズンを、今回は8月下旬から9月の初旬にした。8月の中旬には英国スコットランドの中心都市、エジンバラで開催される芸術祭に参加することにしたからである。これまでにも、この芸術祭には招待されたことはあるのだが、利賀村での活動の時期と重なり行かれなかった。今年は世界各国の文化大臣が集まり、文化の今後について話し合う会議が企画されているという。
 芸術祭の芸術監督が2度も来日して、私の舞台の上演をその時期にしたいし、会議で何かスピーチをと熱心に誘われる。こういう情熱に出会うのも久方ぶりで、私の気質としては断りにくかった。ヨシ! ヨーロッパでの公演活動もこれを、サイゴニスルカ! と意を決して招待を受けることにしたのである。演目は芸術監督の要望で「エレクトラ」になった。
 今夏のSCOTサマー・シーズンの上演作品は3演目。「シンデレラ」「リア王」「世界の果てからこんにちは」である。「リア王」は1984年、「世界の果てからこんにちは」は1991年、「シンデレラ」は今年の初演である。すべて再演だが、演出手法が異なっているばかりか、それぞれの作品に、私が生きた時代の関心事が鮮明に反映されている。
 「リア王」は25年も前から、世界各国の俳優によって上演され続けている。世界中の演劇人に関心をもってもらい嬉しいかぎりだが、今回はSCOTだけの俳優による上演。「世界の果てからこんにちは」も長い間の上演歴をもっている。しかしこれは、まったく利賀村の野外劇場でしか上演できない作品。花火と山が重要な役割を背負うものなので、何処でも上演できるというわけにはいかない。これまでに利賀村以外での上演の誘いがなかったわけではないが、すべて実際の上演は不成立。この2作品は演出手法だけではなく、作品の上演歴でも対照的である。
 「シンデレラ」は今年から私が目論む、新しい人生の出発作品である。イマサラ、ナニヲ! と笑われそうだが、この利賀村を<自然>と<演劇>を同時に楽しむことができる場所にしたいという思いがあってのこと。この場合の自然とは動物のこと、演劇とは親子で楽しめる児童劇のことである。簡明率直に言えば、利賀村に自然動物園をつくり、その園長になりたいということと、児童劇専門の演出家として再出発したいということである。今までの人生は、世を忍ぶ仮の姿であったかと、朗らかに笑えるぐらいになりたいと思っている。
 今年になって、テン=貂やアナグマ=穴熊やタヌキ=狸と暮らし始めたり、チョット変わっている児童劇「シンデレラ」を創ったのはそのためである。日本を取り囲む国際環境は、これから著しく変わる。新しい展望のもとに、新しい活動をと考えたら、外来種ではない土着の動物を見せ、さらに土着の親子=日本人に、これからの日本の行く末に思いを巡らすような作品を見てもらうのが、この利賀村の見事な施設を意義あるものとして活かす道であり、私の人生の最後のご奉公だという結論に達したのである。
 むろんこの私の目論見は、劇団員にはまだ正式に話してはいない。児童劇はともかく、動物園の方は、果たして劇団員が一緒に、しかも喜んでやってくれるものかどうか、少し心配をしているからである。 

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