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鈴木忠志見たり・聴いたり

12月27日 再び、第一歩を

 朝早くに東京を発ち、昼過ぎには利賀村に着く。珍しく安心した帰村。羽田から富山行きの飛行機が欠航になる可能性があったので、小松着の便にしたことによる。富山便も雪による到着の遅れはあったようだが、今年は欠便はなかった。
 吉祥寺シアターに置いてあった舞台装置の積み出しのために、羽田を遅れて出発した劇団員のグループも、夕方には無事到着。夕食が賑やかで良かった。雪は例年並だが、気温はいつもより低い。天気予報によれば、日本海側の正月は、例年にないほどの寒波に襲われるとのこと。
 今日は富山県や南砺市の人たちとの忘年会。31日の午後は10月にこの世を去った、斉藤郁子の内輪の偲ぶ会。富山県知事や北日本新聞社の会長など、若いころから長年にわたって親交のあった人たちも出席してくれるとのこと、斉藤も喜ぶだろう。その会の終了後に劇団員は解散、大晦日の劇団の正式行事の終了は、劇団の歴史で初めてである。
 今年ほど我が身の周囲に、人生で初めての出来事が多く起こった年はない。その中でも格別なことはやはり、50年にわたって一心同体のように活動した、斉藤郁子を失ったことである。死の直後は茫然として、あらゆることに身が入らなかった。しかし、いつ迄も感傷的な思いに耽っているのは彼女の志しに反する。彼女の死の直前になされたインタビューの言葉に励まされ、気を取り直し、彼女のSCOTに賭けた人生にしっかりと応えなければと頑張り出したつもりである。
 劇団員の内で、今だ利賀村民として籍を置いているのは、彼女の死後は私一人、彼女の執念の成果ともいうべき、利賀村の素晴らしい劇場群を廃墟にしてはいけないと、決意を新たにしているところである。この施設の将来が不動のものになることを見届けてから、私は世を去ること、どうやらこれが私の人生最後の仕事になってしまったと感じている。
 私もそれなりの年齢になったせいか、後継者は誰になりますかと、よく人に聞かれる。芸術家としての後継者は、日本人でなければ、信頼し推薦できる人たちは容易に存在する。しかし、行政や政治の世界にまで、時としては足を突っ込み成立させてきた、この素晴らしい施設を運営しきれる後継者をと言われると、返答には窮する。この二つは全く異質な側面を持っているからである。
 後者のことは、富山県の政治の在り方と密接な関係を持っている。それだけではなく、日本の政治状況とも。芸術活動のように、個人の考えや欲望で事態が展開する類いのものではない。地元の政治家の方針や国の政策によって、多大な影響を受ける面がある。政治家の政策への理解、その方針を具体化する行政官との信頼関係、それが存在しないと、何事も始まらない。ましてや現在、人口が600人ほどになっている地域、いずれは滅びることも想定される限界集落に在る施設での活動である。こういう場所での芸術活動、これを日本が誇る世界のための公共財産だと胸を張れる演劇人が、はたして現在の日本に存在するかと考えると、心もとない気はするのである。
 しかしいずれにせよ、この利賀村の施設は、しっかりとした政治方針と運営主体のもとに活用されなければ、地域諸共に滅んでしまうのもそう遠いことではない。
 私たちがこの地で活動を始めてから、来年は38年目になる。富山県民はこの利賀村の存在をどのように受け止めているのか、国際的に認知されている芸術活動の拠点をどう評価しているのか、それを前提に政治や行政が明確な方針を打ち出さない限り、この利賀村での実績も、すぐに人々の過去の思い出になってしまうのは確実である。
 これから、日本の社会だけではなく世界は、新しく且つたくましく未来に向けて変貌していくことを要請されている。そうした時代に、この利賀村の活動が多くの人々の心を動かすことのできるためには何が必要か。
 今年は私にとって、本当に一区切りの時代であったし、来年は再び新しい時代を生きるための、第一歩を踏み出さざるをえないのかもしれないと覚悟している。